空が見える

私は冷たくなった手を蓮くんのコートに入れた。コートのポケットにはスマホが入っていて、爪が画面に当たる感触があった。ごめんね、と蓮くんは言って、スマホを取り出し、反対側のポケットへと入れた。
「寒い?」
「ううん。蓮くんのコート暖かそうだったから」
蓮くんはポケットの中の私の手を握り、冷たい、と言った。蓮くんの手はいつも温かい。
「蓮くんの手は冷たくない」
蓮くんは、良かった、と言って優しく微笑んだ。そういった優しさは誰に作られてきたものなのだろう。蓮くんは私が知っているだけでも5人以上、過去に恋人がいたことがある。もしかしたら今も、私の他に付き合っている人がいるのかもしれない。そもそも、私と付き合っているという認識をしているのかどうかも分からない。軽い気持ちで何度か聞こうとしたことはあるけれど、毎回、声が震えそうになって止まってしまう。例えばこの優しさが両親によって育まれたものであれば、こんな気持にならなくて済むと思った。でも、それでも何故か嫌な気がする。
駅のコンコースには大きなツリーが立っていて、青と赤のイルミネーションが交互に点灯していた。バス停の前には人が並んでいて、最後尾の子供がソフトクリームを食べていた。
「こんなに寒いのに、よくアイスを食べるね」
「冬は美味しいアイスが多いんだ。夏は体温を下げる、つまり冷却目的で購入されるのが一般的だけれど、冬はアイスそのものの味を楽しむ傾向が強くなる。結果、大人向けの高価格帯の商品が多くなるから、メーカーもコストがかけられるようになって、味のレベルが高くなる」
「そうなんだ。蓮くんは冬でもアイスを食べる?」
「僕は夏でもアイスなんて食べないよ。アイスは乳化剤が多く含まれているから。差し入れで貰ったりしたものは極力食べるようにするけれど、持って帰ればゆかちゃんが食べてくれるし」
そういえば、私は蓮くんがアイスを食べているところを見たことがなかった。たまに冷凍庫の中に入っていて、それは、私が好きだから買って帰っているのだと思っていた。
「ゆかちゃんは、子供欲しい?」
「分からない。いいな、と思ったことはあるけれど、それはいいところを見ただけで、わるいところを見ていないからだと思う。大人になれば気持ちも変わるだろうけれど、だったら大人になってから考えればいいとも思う」
「ゆかちゃんはもう大人だよ」
私は蓮くんのポケットから手を取り出して、自分の鞄からスマホを取り出した。もう帰る?と聞くと、蓮くんは、うん、と応えた。
「Uberで鍋料理を注文したから、今日は家で食べようか。何か買って帰るものある?」
「乳液がもうすぐ無くなりそうだったかもしれない。でも、そう思って買って帰ってもいつもまだ半分くらい残ってる。だから帰ってから確認する」
「乳液ならもうすぐ無くなりそうだったから注文しておいたよ。同じやつで大丈夫だった?」
「うん。ありがとう」
私は再度、蓮くんのポケットに手を入れて触れ合いたかったが、蓮くんが嫌がるかもしれないと思って辞めた。蓮くんのコートの向こうでイルミネーションが明滅を繰り返していた。どうせ季節が変われば取り外すのに、何故わざわざ付けるのだろう。付けるのであれば付けたままにすればいいし、外すなら外したままにすればいい、と思った。イルミネーションの奥にはコインパーキングの看板が光っていた。蓮くんが何か喋った瞬間、赤い「満」が白い「空」に変わった。私はコインパーキングの看板が変わる瞬間を初めて見た。
「蓮くんごめん。なんて言った?」
「ううん。大したことじゃないよ」
蓮くんは右手で持っていたカフェラテを口へ運んだ。コンビニで買ったときは蓋の方まであったのに、いつの間にか空になっていた。カフェラテは飲むと無くなるのだと思った。蓮くんの右手は空になったカフェラテの容器で塞がれていて、私はカフェラテが羨ましいと思った。
「私、ゴミ捨ててくるよ」
「大丈夫。コンビニで買って帰りたいものがあるから、そこで捨てるよ」
「分かった」
ここで私が舌を噛み千切ってしまえば、蓮くんはそれも一緒に捨ててしまだろうか。考えたってそんなことはしないのだろうけれど、いつもそんなことばかり考えてしまう。最終的にその思考は何処に辿り着くでもなく、途方に暮れる。無駄だと分かっているのに、無駄な方にばかり自分は進んでしまう。蓮くんに変な子だと思われるかもしれない。私は変な子だと思われるのは嫌だ。蓮くんは私のことをどう思っているのだろう。変な子だと思ってなければいいなと思った。
ふとコインパーキングの方を見ると、看板は「満」になっていた。あとは「空」から「満」に変わる瞬間だけ見られればいいのに、私はその機会を逃してしまった。私の手はもう一度、冷たさを取り戻していた。

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