想いは人知れず

最後に夢を見たのはいつだろうか。
夜の海、厚い雲が星を隠していては何も見ることができない。遠くにいる烏賊漁船が蛍のように小さく動くだけ。
波の音が私の記憶を連れ去ってくれればいいのに。
引き潮でこの体を吸い込んでくれればいいのに。

「マキちゃんいらっしゃい。」
扉を開けて迎え入れてくれるのは母ではない。うちの向かいに住むナオヤさん。
もう随分年を取っていて、飼い犬のダンもナオヤさんと同じようにおとなしい。普段は眠っているだけなのに、ナオヤさんに誘われて家にお邪魔するときだけワンと吠える。

家に帰っても誰もいないことがよくあった。鍵を持っていなかったから最初は玄関で座っていた。初めてナオヤさんが声をかけてくれたのは冬。初雪の日だった。

「ココア」

ジョンの散歩のついでだとナオヤさんは言ったが、そのジョンがいなかったからすぐに嘘だとわかった。

酒に酔った母が戻ってくるとナオヤさんは家の鍵を忘れて入れないから二人で暖まっていたんだと言った。母を綺麗な服を着ていると褒め、そのまま帰宅した。
ナオヤさんは嘘が下手だし、ジョンは人がくると1度だけ吠えるから2人は揃ってコソコソ動くことができなかった。

私の家のことをナオヤさんは知らないし、
ナオヤさんの家のことを私は知らない。
知らないから私たちは優しくできた。自分の妄想で自分なりに可哀想な人を描いて味方になりたいと思えた。

私たちはあまり喋っていない。同じ時を何度も過ごしただけだ。人は言葉が通じなくても愛を伝えることができる。

いくら酔っぱらって帰ってきたとしても、私は 母が好きだったから洗い物をもしたし、掃除もしたし、勉強もした。母からその見返りが返ってきたのが今日だ。

「ナオヤさんが亡くなったよ」

社会人になって初めて母からかかってきた電話。
母は私に興味がないことは知っていたが、きっと、私の行為から愛を感じてくれていたんだと思う。だから、私の誰よりも大切なナオヤさんの死をその日のうちに教えてくれたんだと思う。

ねえ、ナオヤさん。
たった一言『東京にいきなさい』って言ってくれたのはいつか、こういう日がくるってわかっていたからなのかなあ。
ジョンがいなくなったって知ってたのに、東京に行ってごめんね。1人にしてごめんね。ありがとうって言えなくてごめんね。
愛は言葉にしなくても、感謝は言葉にしないと伝えられないね。

また涙が溢れてくる。誰もいないこの海で大声をあげてひとしきり泣いた。たまに光を生み出していたスマートフォンは徐々に多くの回数輝くことになる。

「大丈夫?」
「事情はわからんが元気だせって!」
「昼焼き肉いこう!辛いときは食べるのが一番!」

ねえナオヤさん。
私は今1人で泣いているけれど、もう独りではなくなったよ。辛いときにいらっしゃい、って助けてくれたあなたがいたから。ここよりも東京にはもっとたくさんの人がいるって教えてくれたから。優しさを身をもって教えてくれたから。

「ナオヤさーん!ありがとうー!」

届け、この思い。
私も誰かに伝えていくから。

窓から聞こえた雨音より着想。

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