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母の誕生日…

幼少期、私は両親共働きのため祖父母に預けられることが多かった。おばあちゃんも「わしの53の倅じゃ」って周りにいいながら喜んでいたと物心着く頃からよく聞かされていた。

そんな僕が保育園に通うようになり、平日は母のお店のある4畳半の狭い実家から過ごすことも多くなった。週末はおばあちゃんの家、平日は実家という感じだったみたいだけど、ことあるごとにあばあちゃんの家に行っていたのでほとんどおばあちゃんの家で過ごしている記憶しかない。

そんな僕が小学校に上がる頃に、「字が汚いと損する」とかいう理由で書道教室に通うようになる。実家から歩いてちょっと離れたバス停に行き、バスに乗ってちょっと離れた父の同級生が開いている書道教室へ。

通い始めて3年経った小学校3年生の時に、事件は起こる。
いつも通りに静かに精神統一して書を書いて、指導してもらい、帰る準備をして一階に降りていく。

下に他校の同級生がいてプロレスをしていた。階段を降りるか否かの時にすぐに捕まってしまう。「プロレスしようぜ」なんていいながらまとわり付いてくる。それがいやで手を解こうとしたときに反対側に投げ飛ばされる。受け身なんて習っていないから右手を思わず出してしまう。「ゴキッ」という物凄い音を痛みが走り、あられもない方向へ手首が向いている。痛みと手首が動かないのに不安を感じて泣きながら左手で手首を戻そうとする。するとまた「ボキッ」と音がして肘の前の骨まで折れてしまう。その音とだらっとした手首を見て同級生たちの顔色が青ざめる。大きな物音と泣き声を聞きつけて書道の先生が降りてくる。状況を見て尋常じゃないことを察してすぐに駆け寄ってくる。すぐに両親に連絡がいき、そして母が迎えにくる。

まだお店を閉めるのには早い時間だからきっと父と言い合いをして、父が拒否したから来てくれたんだと思う。その足で僕を自転車の後ろに乗せたまま数キロの道を診察してくれる病院を探しながら自転車を漕いでいく。やっと見つかった病院で診察してもらうとやはり骨折と判明。翌朝一番で大きな病院で受診できるように紹介状を書いてもらい家に帰る。

僕を自転車の乗せている間、母は一言も言葉を発することはなかった。それは家に帰っても同じで、怒り心頭の父親を制して僕を庇いながらも何も言わなかった。

翌日朝、渋々車を出して病院に連れていってくれた父と一緒にお店に戻る。施術を施してもらいギブスで固められた右腕をみて一言「痛かったな。よく頑張ったな」とそれしか母は言わなかった。

父親は、同級生である書道教室で問題を起こして、バツが悪かったことが感情に加わり、短気ゆえ骨折している僕に手をあげてきた。何度も頭を叩かれる僕を、身を制して母は庇ってくた...

明日のことを何度も何度も何度母が頼んでもヘソを曲げた父は、車を出すことに賛成はしないで「お前が自転車で明日も連れていけ」とそっぽを向いてたんだけど当日は、車の準備をしてくれた。

なんて言うのかな、父親の愛と母の愛、形と表現の仕方が違うだけでちゃんとあるんだよね。
その時はクソ親父と思ったけどね。なんで話を聞いてくれないんだよ。好き好んでプロレスしたわけではないし、階段から降りるや否や腕を掴まれてあっという間の出来事で回避できなかったことなど微塵も聞いてもらえなかった。
母や状況を聞いて分かっていたから何も言わなかったけど、一度ヘソを曲げてしまい拗ねると手のつけようがない父を知っているから何もしなかったのかも知れないね。

一日中立ち仕事で接客してお客様の髪を結って疲れているのに何も言わずに行動してくれた母の愛。大きいね。
亡くなった今でも感謝でしかない。

言葉は少なかったけど、愛に溢れていた母。
そんな母の今日は誕生日、生きていれば87回目の母の母であるふじのばあちゃんが頑張った日。

ふじのばあちゃん、利他の心と愛あふれる母を産んでくれてありがとう。母の子にしてくれてありがとう

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