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助け合って生きていくということ、人を大切に想うということ

最近複数の友達が、
「誰かに助けを求めたいけど拒絶が怖くて助けてって言えない」
「愛されたい」
と思っている、と打ち明けてくれるということがありました。
その言葉達にとても刺激を受けて、
助け合って生きていくってどういうことなのか?
どうしたら十分に愛されていると思えるのか?
この何でもすぐに忘れる(最近まじで物忘れがひどくて怖くなってきました)頭で、熟考する機会を得ました。

まず助け合って生きていく、ということについて書きたいと思います。
(あくまでどこにでもいる普通の会社員の私が勝手に思うことです)
結論、助けを求める時に、大切だと私が思うのは、
誰にどうしてほしいのかを明確にする
ということです。
助けて!って思ってる時って多分本当に底なし沼に頭を突っ込まされているような感覚だと思うんです。
息が出来なくてパニックで、正常な判断をするのは困難ですよね。
でも、そのパニック状態で「助けてください!」とやみくもに他人のパンツの裾を引っ張っても、誰もどうにもしてあげられないし、
(どういう体勢)
困ってる人をターゲットに利益を得たい人しか立ち止まってくれないような予感がいたします。
(これは単なる私の世界観です。世界はもっと優しいかもしれません)
一旦冷静になって、誰に、どうしてほしいかを整理する、というのは、自分の状況整理のためにも自分の力になってくれる行為だと思う次第です。
さらに、他人に過剰な期待をせずに済む一石二鳥な行為だと思います。
例えば、足を骨折して(どこかの誰かのように)パニックになってる人が、親に「助けて!」と言っても、親が出来るのは「大丈夫?」と聞くことと「病院に行け」ということくらいだと思います。
心配してもらっても足は治らないし、病院だって自分の行きやすい場所は自分でアプリで探した方が都合が良いし早いので、足を骨折したら
医者にかかる、というのが自分を助けるために出来うる最善の方法だと私は思う次第です。
心の問題だって、もちろん周囲の人に相談することはとても大切です。でも、友人が専門家で無い限り、素人の対応しか出来ないわけです。
だから友人は不要、とかそういうことではなく、
友人には話を聞いてもらいたい、
カウンセラーや医者には俯瞰を手伝ってもらいたい、
とか、そういう目標を明確に自分の中に持っておくのが大切なのでは、と思うのです。

一旦、ここで大切なポイントになると個人的に思うのが、
全ての決断は自分の責任の上で行う、ということです。
誰に助けを求めるか、どんな「助け」を求めるのか、
など、全て自分の責任の上行うものです。
占い師に話を聞くのか、カウンセラーなのか、スピリチュアルなのか、科学なのか心理学なのか、
沢山の選択肢はありますが、
自分の判断で行わないと、誰かのせいにするしかない人生になってしまうので、たとえ解決したとしても「助けて」という気持ちは一生残ったままのような気がします。
(お金を払うことで適切な距離感が出来るので、私がもしメンタルで困ったらお金を払って専門家やお医者さんにかかりたいです)

では反対に助けを求めている人を、助ける、とは、
その人のために大金を使うことでも、
一緒に地獄に落ちることでもなく、
共に生きることだと思うんです。
私がその人のために真心を尽くして共に生きるということ、だと思うんです。
もし仮に、私がその人を助けたい一心で、
お母さん役をやり、恋人役をやり、親友役をやり…となると、私自身が壊れます。
誰かを助けたくても、医者じゃない限り病気は治せないし、専門家じゃないから最善のアドバイスなんて出来ません。
何も出来ない無力な自分が、逆に自分に出来ることを突き詰めると、今の私は共に生きる、ということに行き着きました。
苦悩して、自分自身に正直な言葉で生きていくこと、相手に真心を持つこと、それが私にとっての共に生きる、ということです。

そして最後に人に愛される、ということについて書きたいです。
愛されたい=安心したい、ということだと私は解釈しています。
安心するためには、自分に正直でいることが必要不可欠だと私自身、強く思います。
自分に正直、というのは言葉(だけ)ではなく主に行動です。
会いたくないけど家族だから時間を割く、
もう好きじゃないけどセックスする、
など、自分の声に反したことをしていると、いくら100万回「愛しています」と言われても「あー愛されてえー」と永遠に言って回ることをやめられないのでは、と思います。
話は若干ずれますが、でも上記のように自分の正直な気持ちに従えないのは自分の中に様々な矛盾があるからだと思います。
でも、生きていれば矛盾は発生するものだと思いますので、それは全く異常なことではないし、むしろ一生懸命生きている証拠だと、私自身のことも含めて思います。
その矛盾をそのままにするのか、矛と盾を天秤にかけてどちらかを失いどちらかを得る覚悟を決めるかは自分次第だと思う次第です。
(人生たのっすぃーですね)

なので、結論、愛されたい、と思った時に、私がしたいことは、
自分が自分に正直でいられているか?のチェックを行いたい、
ということです。
でも上記で書いたとおり、心には矛盾が沢山生じるものです。簡単にはその矛盾を解消出来ないと思います。
しかし、「愛されたい」と悩む、ということは危険信号で、もうその矛盾に耐えられない、助けて!と心が訴えている状態だと私は思うのです。
愛されたい=心から発せられた警笛
だと思いますので、今まで抱えてきた矛盾を手放す時が来たのだ、と受け入れ、新しい未来を自分の手で切り開く覚悟を持ちたい次第です。

上記じゃ全然的外れじゃないか!
愛されたいのに正直になる、ってなんじゃそりゃ!愛してくれる人が欲しいんだよ!
という意見もあるかもしれませんが、他人に愛して欲しい、と期待しても無理だと思うのです。(すみません、何度も言いますが私が思うことです)
自分のことを自分が満足できるほど愛してくれる人なんていないからこそ、宗教が人々を救ってきたと思いますので、
宗教に求めるようなものを、一個人の他人に求めるのはもはや暴力では…!と思う次第です。
(そもそも愛って何…というのが分かっていない私が愛を語るなんて100万年早かったのでもう穴があったら入りたいと思います)
もちろん、世界一愛し合ってるとお互い思ってる二人をが一生素敵な夜を過ごせたら良いのですが、
爆乳の峰不二子が何かの間違いで現れたら素敵な夜は一瞬で終わります。
峰不二子は悲劇の象徴でも何でもなくて、ただの人生の一点で、峰不二子がいるからこそ、人生は楽しい。
あれ、すみません話がずれました。

別に私は専門家でも科学者でも何でもないので、上記はただの私が、
友人達の生の声にものすごい衝撃と刺激を受けて熟考する機会を受けて書いただけです。
友人達の言葉があまりにまっすぐで本当のことだったからこそ、本当に心が震えました。
別に上記は友人達にこうすれば?と提案したくて書いたわけではなく、私が未来に友人達と類似したことを思う機会があったときのために整理したかった次第です。(自分のためかい)
友人達には、これからも私の真心を送って、送って、送って、共に生きさせてくれ、と言いたい次第です。
こんなまっすぐな言葉を言えるくらい素敵な人達と友達でいられてラッキー歓喜でございます。

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