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おちょこの傘持つメリー・ポピンズ/唐組/フラッシュメモリー/20220526

唐組、コロナでの自粛期間を乗り越えて、花園神社を皮切りに全国ツアーにでかける。初日、花園神社へ。新井高子さんの『唐十郎のせりふ』を読んでから、まさに唐十郎の戯曲が身体になじむようになった。凄い著作だとつくづく思う。

傘屋の店主のおちょこ(久保井研)は、傘の修理を依頼してきた少女・カナ(藤井由紀)に恋をして、その傘をメリー・ポピンズのように、風に乗って空を飛ぶことができるようにしようと、居候の檜垣(稲荷卓央)と飛行実験にいそしんでいる。そこに保健所職員、鉄道員などが絡んで、物語は凄じい速さで展開していく。
このスピードは、唐十郎の戯曲に組み込まれている。戯曲を読んでそれが分かる。今どきは、昔に比べたら台詞が早い…にもかかわらずこんなに早い台詞回しあるだろうか。尋常ではない。今回、何かが違うなと感じた。唐組の役者たち、長いこと唐十郎の演出の呪縛から逃れられなかった。おそらく久保井研も含めて。そりゃあそうだ。中村勘三郎や蜷川幸雄だって少なからず影響を受けてきた。ましてや今だに唐組の大将は唐十郎だ。久保井研はその演出を舞台の上で受けてきた役者でもある。しかたがない。
だけど唐組になってからの唐十郎の演出は、状況劇場の時とは少しだけ違いっているように思う。客観性があるというか…。唐十郎は自分の戯曲をひっくり返すような演出と、そしてその演出をまたまた吹っ飛ばしてしまう演技力をもっていた。1人三位一体のようなことは、今の時代にはありえない。なぜなら時代というものも————後押しをしていたからだ。テント公演というものを作り出し、引っ張り回して、寺山修司や蜷川幸雄や黒テントの佐藤信をはじめとする面々、小劇場運動と言われた野田秀樹たちに、立ち向かってもいた唐十郎だからだ。『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ』を上演しているころは、役者も強者が揃っていたし、李麗仙もいた。なりより唐十郎とてつもなく若かった。
久保井研と唐組、これまで少々、唐十郎の演出を気にして舞台を作っていたように思える。しかしながら、そこを完全に吹っ切って舞台にのっているようにみえた。唐十郎の演出ではなく戯曲を相手に舞台を作っていくことを久保井研は選択したのだろう。もともと唐十郎が倒れてからはそうしていたのだろうが…。『おちょこの傘もつメリー・ポピンズ』そうは言っても道具とか動きとかは踏襲している。だから見た目ということでは、変わらない。何が変わったのか。おそらく決意だ。
とてつもないポテンシャルのある唐十郎の戯曲、その言葉、唐十郎の演出なくても、唐十郎の俳優としての肉体がなくても成立している。唐十郎の戯曲に立ち向かう…だからこそのこの戯曲なのだろうが…しかし…。しかし…唐十郎は一筋縄ではいかないのである。この戯曲は30歳代に書かれたもので、言葉が猛スピードで走っている。
さらに、唐戯曲にはよくある、こんな台詞…。

若造:あなたは、なにと言われて二度とは言わないと言った。しかし、僕は二度言ってもこう言おう。檜垣さん、こんなひなびた傘屋で、僕とあなたが息をひそめて、ふだん通りにやることが、あなたにはおもしろいことですか?

相手、檜垣の台詞を引っぱっりこんでいて、台詞の中で若造=自分が、檜垣としゃべっている。実際の役者同士の会話より圧倒的に早く、間もなく言葉が進行していく。今、思い出したが、山上たつひこの『がきデカ』。過激な突っ込みとぼけの「こまわり」君が主人公だが…ひとりこまわり——という自分で突っ込んで自分でぼけるというのがあったような気がして、ネットで確認したら、出てこない…。ああ、唐十郎ってそういえば、こまわり体型だな…。あ、逆か。にしてもそういうことだ。相手がいる前で、相手の突っ込みと、肩透かしを自分でしてしまう台詞がよくある。この台詞が巧いのは唐十郎と、李麗仙。もうこれをやり出したら、客は面白くて、面白くて、言葉の魔力に吸い込まれて、ついでに舞台の虜になる。見るほうがそのスピードにのっていく。バイクの背に乗っけられて猛スピードで下町の細道を抜けていく感じだ。
この台詞のスピードに合わせて、受けるのか、ちょっと外して受けるのか、かなり相手にしたら難しいところだが、いずれにしても唐十郎や李 麗仙のスピードに息を合わせていないといけない。唐十郎、しかも役者にあてがきして台詞を書くから、圧倒的に自分の身体性が、戯曲から、声に出した台詞の調子からに、彼自身の身体の優位が組み込まれている。受けの感じも戯曲に書かれている上で、役者は唐を超えるような存在感を出さなくてはならない。これがかつてはねの台詞と身体の[事情]なんだと思う。
今は…唐は舞台上にいない。生理と身体を唐十郎に合わせることはないし、合わせられない。合わせることを全体にかかれた唐十郎の戯曲は、いまだに俳優の肉体を懐胎したまま…に…紙の上を彷徨っている。ここに今の、役者の身体をあてこんでいく。そして対話と自己突っ込みの自虐語り————。でも、面白い行為。今の演劇的身体に唐戯曲を甦らせる。いや作り替える。演出をもって…。一字一句変えないままに。久保井研と唐組の挑戦は今の肉体を唐十郎の戯曲にどう嵌めるか、ということになるんだろうと思う。非常に興味深い演劇的実験である。

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