見出し画像

日々是徒然 Best Of #わたしの棚  『師父の遺言』松井今朝子/集英社文庫

[承前]


 雪の落ちてきそうな曇天が、広い敷地の南千住貨物操車場にのしかかっている。手前、山谷側の路地を通って、いくつか角を曲がったところに母親の居る介護施設がある。
 介護人が「あそこです」と指さした先、大机の端っこに母はぽつねんと坐っていた。側に寄ると、しばらくこちらの様子を窺ってから、何か眩しそうな顔をして「あ、あんた良く来たね。ここにいるのが良く分かったね」と話しかけてきた。前回、来た時もそんな口切りだった。
 隣に坐ると僕のトートバックを自分のもののように、がさがさと探りながら「あんた、何か読むものをもってないかい?」と聞く。たまたまデザイナーの机上から拝借した『家、家にあらず』(松井今朝子)をもっていたので…「これでよければ」「お小遣いもないので本が買えないんだよ。同じ本をもう10回も読んで飽きちゃったからね。」と母親は受けた。
 一週間後にまた面会に行くと、読み終えていて「面白かった、この人の本を読みたい。あんた今日はもってないの?」とおねだりされた。母親は、松井今朝子の作品をえらく気に入ったようだ。歌舞伎とか芝居にまったく興味をしめさないで生きてきたのに不思議な感じだ。以前、母は「あんた、私もおとうさん(父のこと)も舞台はからっきし不案内なのにどうして、あんた舞台を見るようになったかね」と、云っていた。親は子に大きな影響を与えるが、成人したらそれがすべてではなくなるということが、ずっと分からない人だった。
 母の頭の活性化のためにも、松井今朝子の本をもっていこうと集めはじめた矢先、突然、母親に会えなくなった。法的手続き使って弟が僕を母から遮断してしまったのだ。
 会えなくなって、新刊がでるたびに松井今朝子の本が机に積みあがっていった。

[師父の遺言を捲る]


 乗馬のために転居した松井今朝子のマンションの前に、漢方韓国料理屋がある。美味しいと勧められて、食事女子会に混ぜてもらった。『黒い雪』(武智鉄二)は反米映画なのよ…松井今朝子が舌鼓をうちながらそう言った。「へぇ…。そうなの。」と、興味を示した僕に、「DVD貸そうか」と松井今朝子さん。「貸して貸して」とおねだりしたら、隣で同じく舌鼓をうっていたブックデザイナーが、「『師父の遺言の遺言』(松井今朝子)を先に読んだ方が良いんじゃない?武智の評伝だから…私のデザインじゃないけどね」と、そっと耳打ちしてくれた。
 会社に戻って、母親に渡すので何となく読みそびれ、積んである母親用松井本のなかから『師父への遺言』を抜き出した。申し訳ないことに、松井今朝子の本を読むのははじめて。どうやって読みはじめようかと、『師父の遺言』をぺらぺらと指で捲った。指から予感がした。
 本は時に、自分の経験しなかった、あるいは経験し得るはずのない特殊な人生を、そこに居合わせたように体験させてくれることがある。でも[時に]は稀にである。この本は、自分にとって最も遠いところで起きていて、それゆえに体験することも、見ることもままならないことを、まるで、傍に立って見ているかのように濃厚な現実として味合わせてくれた。
 さて『師父の遺言』、師父というのは武智鉄二のことで、その評伝になっている。なっているのだが、90ページ(文庫で)を越えてもまだ武智鉄二は本格的に登場しない。そこまでの頁は、武智鉄二とどうして出会い、何故弟子になったのかという、理由を含めた、松井今朝子の半生に割かれている。さもありなん、武智鉄二に至る道、どうして武智に信頼されるようになったのかは、まさに特殊事情。松井今朝子という希有な人生の道は、これまでにも、これからもない。類い稀なるとは、こういうことを云うのである。
 松井は複数視座をもって人生を歩んできた。歌舞伎見巧者(目だけでない体感巧者、しかも裏表から)大物役者と日常で識りあい、祇園生まれ祇園育ち、お家が超有名割烹、早稲田演劇科(近松門左衛門全部読み)、松竹社員、歌舞伎戯作者(脚本家)、演出助手、演出家…。歌舞伎に対してだけでも7つぐらいのスタンスで、深く係わってきた。歌舞伎を書くのに、本格視点でかつ複数持っていてどう筆を走らせるのか…。たとえば作家で翻訳家という場合、両方適当にしてこなすか、悩んでどちらかをサブにするか。たいていは悩みに悩んで文体を作る。
 複層視点を嘘偽りなく纏めあげ、このクールな文体に走らせるのは、希代の技であろう。想像だに難しい。七つの目を持つ人は、これまでも、これからも存在しないだろう。その視座に折り合いをつけ、なおかつ自慢にもならず、嫌みにならず、知っているよの上から目線にもならず、その筆は、すらりと美しい。

[諦念の日]



 放課後たったひとり教室に残って、私はクラス全員の詩に目を通していた。詩作にはたぶん以前から自信があって、自分のが一番上手いと思い込んでいたに決まっている。ところが天狗の鼻をみごとにへし折ってくれた詩が三本あった。~それを読んだ時のショックは教室の情景として心に残っている。片側の大きな窓ガラスから強い西陽が照りつけて目の前の机がまぶしく反射し、却ってあたりが暗く見えたのを想い出す。(P49)
これは、詩作に自信があって、自分の作が一番上手いと思っていた小学生の松井今朝子が、もっと上手い同級生の詩に出会った時の記述。
 諦念させるものは、おおよそ向こうから来る。誰しも味わうことでもあるが、きちっと受け止めた人間は、それを糧にできる。松井今朝子は、衝撃を受けた時、それが風景の変容になって記憶される。受容力の細胞が一段と視覚的であり、なおかつ繊細なセンサーを生来もっているゆえの忘れ得ぬスティグマとなるのだ。
 たとえば、諦念は、子供の頃に天才と言われた棋士におとずれる。駒を通して瞬間的に自分より強い相手を認識する。自分が日本一の才能じゃなかったんだと、洗面所に行って号泣する。そんな記録をいくつもみた。棋士はそうやって諦念する。そしてさらに強くなる人と、そこで博打などにに走って、身を持ち崩しながらそれでも味のある将棋を打つようになるかの二択だ。
 アブラモヴィッチという現代美術の作家で印象的な作品がある。飢餓状態にして、ネズミを一匹ずつ戦わせる、ちょっとの差で相手を食べ勝ち残る。そのトーナメントをして、決勝で当たった時のネズミは、選抜された強いネズミに勝ってそこまで来た二匹である。自信もある。で、その決勝で戦った時に、相手を見た瞬間に負けを自覚する。その知る恐怖はいかばかりのものか——という作品だ。トーナメント一回戦での負けるかもと、勝ち上がって来た強いネズミの負けるかもは中味が違う。恐怖の絶頂だ。作品を見た時吃驚した。おそらくネズミの場合は諦念ではなく恐怖だろうが、一生変わらない諦念をする人こそ、そのジャンルで生きていく可能性をもらうのである。
 松井今朝子は、小学校で詩も、文字を書くことも諦念し、また子どもの頃から凄い舞台人を見てきたので、舞台に上がりたいと思ったこともないとも書いている。それは良く分かる僕が最初に見た舞台は、天井桟敷の『阿呆船』で、踊りは順番を覚えていないが土方巽のアスベスト封印公演か笠井叡の天使館公演だから、まちがっても舞台にのることは思わない。
 ところが、舞台の裏方には、そして美術の裏方には、演者に作家になりたくてなれなかった人たちが蠢いている。この人たちはかなりやっかいな存在だ。様子を窺って偉そうなことを演者や作家に言ったり、裏で悪口を言いまくったりする。この人たちは諦念しているような口を利きながら、心で諦念をしていない。俺にも運があったら、あいつよりも上をいっている…そんなことを頭の片隅に置いている。
 松井今朝子は、きちっと諦念しているのだが、よくよく読んでいくと、一番になれないなら諦念するということなのだ。彼女の凄じい才能は、一番以外を許さないのだ。実はもの凄く気の強い実力者でもある。そして松井の凄いところは、自分のことだけでなく、修羅の世界で才能ある人がとう過ごしてきたのか、どう過ごせるのか、あるいは過ごせないのかということも分かっていることだ。
自分の拙い文章が、恵まれた文才を仕事に結びつけなかった多くの人びとに読まれているということの恐ろしさを、私は彼女の姿を通して実感した。(49P)
 ショックを受けさせられた、詩を書いた人に同窓会であって、その人が物書きにならなかったことを受けての文章で、才能と云う存在は不可思議なもので、才能をもっている人が、それを発揮して何かを成し遂げるというのは、それほど多いわけではない。才能は必要であるし、松井今朝子は、拙いなどと言うけれども、類い稀な才能もそして機会ももっていた。それでもその人をぎゃふんと言わせる才能は、転がっているのだ。特に10代に才能はけっこうごろごろしている。
 この歳まで生きてくると、才能は、発揮される形を身につけてこそだということと、それをトップ争いしているところまでもっていく欲動と、あとは運。できれば引き立ててくれる人があれば最高だろうが、それがないと才能は簡単に腐ってしまう。二十五歳から先は、才能は磨いてはじめて発揮される石に変わる。
 松井今朝子は、好むと好まざるとに係わらず、才能を納める型を強制されるようなところにいて、それを拒否しなかった。逆に自ら進んでその型を磨く基礎作業を厭わなかった。『師父の遺言』のような誰にも書けない、すらりとした、それでいて示唆に充ちた書き物をものにできるのは、そうしたことの果てにある。その前提として、型の訓練なしにトップに君臨するような天才(ジャンル10年に一人でるかでないかの)以外は、一度、自分の才能に諦念するということが必要だろう。
 あ、この人自分よりも才能上かも…という風景が見える人は、自力を絶対にも相対にも見れる人である。それは仕事をしていく上で重要な能力となる。自己を絶対に思うことと、相対的に自分の力がどうなのか…を見れる両方が、仕事を良いものにしていく最大の姿勢である。
 そうして、才能ある人が実はその力を発揮する仕事に結びつくことは、そんなになくて、それがゆえに、もし才能がない自分が仕事についたら、それは埋もれた才能ある人のためにも、できる限り、やらなくてはいけないという使命にもつながる。
 世の中には、才能のある人がどれほど、埋もれていくかということだ。特に歌舞伎は、名題下にすら劇団のトップを張れる演技力をもった人たちが、ごろごろして、才能を仇にしている。それは歌舞伎をそれほどに見れない自分でも分かるのだから、傍で、分かって見ている松井は痛いほどの気持ちでそれを見続けたのだと思う。

[パラレルワールド]


——本は時に自分の経験しなかった、あるいは経験し得るはずのない特殊な人生を、そこに居合わせたように体験させてくれることがある。良い本は、読者の立ち位置まで何となく知らせてくれる。   
 『師父の遺言』で松井今朝子が想定している読者の立ち位置と、まったく異る位置で僕はこの本を読んでいる。『松井今朝子の半生とその体験が、体験できない遠いところになるにも係わらず…まるで体験したかのようにリアルに目の前に拡がる。——そのことを説明するためには、ほんの少しだけ、自分の半生も少しだけ紹介する。
 簡単に言うと、松井今朝子は、僕のしない/できない舞台人生の向こう側、パラレルワールドにいる。もちろんそのパラレルワールドに居るのは、先ほどのべたように天涯ただ独りなので、なかなか手がとどきにくいのが普通だが、それが鮮やかに自分の中に幕開くのは訳がある。
 松井と自分では、一ヶ月違いの同じ年生まれなのに、趣味とか見たものはことごとく重ならず、ちょうど僕が天井桟敷に通っていた頃は、松井は状況劇場とか、鈴木忠志とか、黒テントとかを見ていて、天井桟敷をほぼほぼ見ていない。松井がみていた演劇を僕が見るようになるのは、寺山修司が亡くなってからのこと。ましてや歌舞伎と云えばもっとずっとあとのことになる。一緒のことは加山雄三ファンくらいだと記憶している。GSの好みもまったく違っていた。
 時代を同じくして、余りにも陰陽反対の生きようなので、面白くも[なるほど]と場面は反転してリアルに浮かんでくる。だいぶたってから祇園にも足を入れるが、僕は素人の何も知らないお客としていくのだし、松井今朝子はそこの住人なわけで、これもまったく反対になる。だからこそ松井の祇園もすっぽりと僕の身体のなかに生起する。

[祇園]


 
 僕が祇園に足を踏み入れたのは1990年だから、三十代も後半になってからのこと。南座改修で祇園甲部歌舞練場での顔見世興業だった。富十郎の『船弁慶』菊五郎の『鷺娘』『与話情浮名横櫛』、先代仁左衛門の『寿曽我対面』など狭い舞台に充実の舞台だった。昼夜の切符と宿をとってもらった。たぶん奥村靫正さんの口利きだったと記憶している。
 

当時、勉強中の歌舞伎を端から端まで見始めて数年たった、という頃で、でも祇園ははじめてだった。泊まったところが元祇園芸妓の玉木さんの宿で、一組だけを宿泊させるところだった。
 で、玉木さんの推薦で、ご飯は割烹の『たん義』というところに行った。メニューがないのに衝撃を受けて、帰り際にどうしてないんですかと聞いて、ここは、お客さんの自由に食べてもらうので、材料だけが書いてあるとのことを聞き…食材の時期に合わせて好みの食べ方で…と、云われ、え?材料も料理も知らないと駄目ですよね…と返すと「きはって、おぼえなされ」(ちょっとちがうな…京都の言葉で)みたいに云われ、その通りに月1で通い始めた。
 『たん義』に嵌まり、京都に通う日々がはじまった。泊まるところは玉木さんち、お座敷には行かないので、祇園に足を踏み入れたと行っても、昭和十七年ミス祇園の玉木さん、そしてお姉さんが里春さん(当時祇園甲部組合長で祇園の踊りの名手)のところで、いろいろ踊りの話とか、昔の祇園のこととか…そうそう玉木さんも祇園ネイティブ…の話を聞いたという僕の祇園体験。
 玉木さんのお母さんも祇園生まれ。で、祇園女紅場(祇園の小学校)の話とか、昔の旦那の話とか…いろいろ。凄いのは、あとで、僕が今朝子さんの知り合いだとしると、生まれた時の経緯をいろいろ教えてくれた。名前の由来とか。祇園は自分の知らないことを他人が知っているというところ。祇園に入ったら、いつどこで何をしたかが関係者にはすべて伝わってしまうという不思議なところ。かくゆう素人ではじめての僕でも、たん義や玉木さんやまだ会ったこともなかった割烹川上のご主人にも。
 松井今朝子は、余り自分のことは話さない。昔も今も。修羅も栄光も不運も不可解ごとも心に秘して
祇園の名門割烹『川上』のお嬢さん(おとうさんと読むのは、この本ではじめて知った)だったことを聞いたのは、僕が散々『たん義』の自慢をして何度か食べに行こうと誘って、「今度ね」とにっこり笑って受け流してもらった後のことだったので、恥ずかしさを越えて、口があんぐりだった。
 祇園ほんとに怖いな。知らないのは自分ばっかり、半可通がまったく利かない街なので、僕には、誠意と正直…(一緒か?)を全力で出す場所になった。相手は玉木さんだけなので、そんなに苦労もなくたくさんのお話と、いろいろな機会(巴会・都踊りのゲネプロ、吉弥の個人的襲名祝い)を頂いただけなので、僕にとっての祇園は玉木さんとたん義しかない。それでも3年、月に5日とか通っただろうか、京都・大阪で歌舞伎興行があればその分、滞在がのびることになった。南座の歌舞伎鑑賞教室では、知り合いになった上村吉弥の楽屋に通って、ごろごろしていた。
 何となく知っていると思った祇園と松井今朝子についてなのだが…『師父の遺言』の初っぱなから驚愕することばかりで、たしかに祇園ネイティブでその水に浸りきっている人と、40歳手前でふらりと半ちくに足を踏み入れ人では認識が違うのはあり前だが、転倒しているくらい逆だったりもするので、今さらながら恐ろしさで身が縮れこんだ。
[里親との暮らし]
人生はのっけから複雑怪奇な姿を取って私の前に現れていた。(27P)
 彼女の言い方によるとこうなる。事実は小説より奇なりというのは、このことのみをさすのではないかと思うほどの[奇なり]である。祇園で聞いていた、松井今朝子の出自は、かなりの修羅を孕んでいたが、なんと『祖父の遺言』に淡々と書かれている事情は、伝え聞く奇異な話の、幾数倍の修羅を抱えた、あり得ないはなしで、なんと松井は、生まれて里子に出されている。両親健在でいるのに。分からない——としか言い様がない。
 昭和二十一年、京、知らないなりにそれでも、親しみをもって風景が浮かんでくるのである。松井今朝子の、その時の楽しさとか寂しさとか、彼女には幼い歳にして[独り]の感覚がある。まわりに大人はいっぱいいるけれど、孤独という呼び方すらしらない漠然としたなかに、ひとりぽっつりと立っている松井今朝子が浮かんでくる。
でも、彼女はその感情をこの本に記していない。風景からこちらが想像するだけだ。
 この本の背後には、三歳から現在にいたるまでの、普通のひとならこなせない、そしてそれを受けた時のさまざまな思いや感情が、音がたたないように静かに配置されている。配置して放置しなければ生きていけないくらいの修羅なのか地獄なのか…。そんなこともふと思う。
 一度、歌舞伎の 三階さんに聞いたことがある。「辛くないですか」「辛いと思ったら一日たりともやっていけないからね。そのくらい大変だから、辛いは思わない。わたしたちは好きでやっているんだから。だって奇麗な着物来てお化粧して、それで365日。いいでしょって思わないとね」三階さんは私生活も旦那に差し出している。オフはない。大晦日でも呼び出されたら行く。熱がでていても行く。デートしていても行く。聞いた後で重ねて聞いたそれでも「辛い?」もう一回聞いてみる。「あんた、やってみたら。楽しいわよ」そいういう強さを三階さんと昔呼ばれていた役者たちはもっている。ある意味、歌舞伎は彼女たち(男性だけど)が支えている部分がある。松井今朝子もたぶんどこかにそんな辛さを平然とした態度に代える術を隠し持っているのだろう。そして術を使っていると思われたらもう駄目という世界なのだ。歌舞伎も…そしてたぶん祇園も。
 松井今朝子は、割烹の娘としても、三歳の頃から歌舞伎の側で生息していた人としても、希有の——歴史の中でも只独りなのではないかと——存在であったのだ。

[ぶぶ漬けでもどうどす]



(家の中に)あがっておくれやすて言はっても、簡単に信じてあがったらあかんのえ。もしあがって、お茶だしてくれはっても、お菓子にはぜったい手ェつけたらあかん。どうぞ、て三度すすめはったら、初めて手ェ出しよしや」と母親が教え込んだ。(41P)
 松井今朝子は大学に入っても、京都で言われる[ぶぶ漬け]が習慣になっていたと書いている。
「自身は十八歳から関東に住み続けているので、母親の教えが今も京都で活きているか、そもそもそれが正しかったのかどうかさえ定かでない。ただ日本流のある意味でソフィスティケートされた社交術の典型が心に残ったのは事実…。」と[ぶぶ漬け]について書いている。要はそんなになかったかもと言っているのだ。自分の立場では分からないと。松井は、東京の大学でも三度勧められないと手を出さなかったと告白している、松井今朝子に、この作法が、大学生のときまで生きていたことに僕は感動を覚えた。
 で、僕のほうのぶぶずけの話を少々。1990年にたん義と玉木さんの家を知って、嵌まりに嵌まって、通いつめたが、ある時、僕が借りていた春秋山荘で鴨鍋をしたいと玉木さんが言い出して…鴨は私がもっていくから…と。玉木さんにおねだりされたけれども玉木さんにも負担はある。料理すると言っているのだから。さてさて、どうしたらよかろうかと、ちょっと逡巡していたら、少し強めに怒られた。なんとなくぶぶ漬けの話をもちだして、言い訳したら、さらに怒られた。色街の人間だけれども、だからこそ、約束は一度したらきちんと守る。一回交わした約束はこちらも守るのだから、そちらもかなえて欲しい。それが此処でのルールと云われた。こう書いてしまうときつい感じのやりとりになるが、気持ちを探り合わなくてもいいのよ…ありのままで…という諭し方…いや諭してはいないな…表現できない、優しい感じだった。もちろん山荘で玉木さんの手料理で鴨鍋を奢ってもらった。
 里春(実のお姉さん)の踊りを見て欲しいと6ヶ月先の大阪文楽劇場の日付を言われて、「はい、見ます」と答えて、切符は自分が買うものと、前日、京都入りするとキップが用意されていたので吃驚したことがある。6ヶ月前に見ますか?見ますと答えたら、間はなにもなくても準備はされている。『都おどり』でも誘われてもし駄目そうなら誘われたその場で、その日は都合悪いですと、きちっと断っておかないと迷惑がかかる。お愛想的に流しては駄目。僕はもともとわりと一言いって(相手の一言も)実行するというのが、好きだったから、そのやり方でいいのか、それなら楽…楽かどうかは別にして、自分の気持ちに合うので、そうすることにした。そうして遠慮なしのつき合いになった。
 『かぼちゃ』で、ご飯食べたいと云われれば、一緒に連れ立ってご飯に行く。元伎芸の玉木さんは、街にお財布をもって出たことがない。顔パスでもあるし(つけが利く後で旦那が払う)連れて行った人はもちろんお金を出すから。もちろんこちらのお財布の具合は、自分よりも心得ている。京都に来たら、泊まらなくてもいいから、顔をだしてお茶を飲んでいってね、と云われれば、その通りにしていた。
 祇園では、芸妓さんは、「no thank you」も「thank you very much」も『へぇおおきに』と答える。「そうなんですか?それじゃ本心は分からないですね。」と玉木さんに言うと、「分かりますよ。良く聞いていれば。」と笑って、適当に受けて流した人には二度と本気で付き合わないというのが、彼女たちの流儀だと。一度は受ける。駄目だったら、そしてその人の人間性を見抜いたら、駄目な方の『へぇおおきに』で流すのだと。元々不誠実な人は、答え方で断わっているのが分からないから…かましまへんと。 
 僕にとっては、そんなに難しいことではないので、そんなに苦労もせず、そうやって玉木さんに対してきた。そこに倣って祇園ではそのようにしてきた。誘われたら一回で答えていた。割烹の板前さんに、一緒にご飯を食べに行きましょうと云われたら、すぐに誘いにのって日本海まで連れていってもらったりもした。そうして付き合ってきた。おねだりはされたことは、できることは、すべて引き受けた。けっこう難しいことも多くて、神戸で看板も出さずに営業しているチョコレートを探しだしたり…。(お客さんにもらったのだが、お客さんはどこで買えるか教えてくれない。おねだりされたいから。そういう捜索が僕に廻ってくる。)代わりに都踊りのゲネプロ見たいと言えば許可をとってくれるし、巴会にもこっそり参加(座布団を一枚買うという表現をしていた)させてもらっていた。
 で、これは、自慢話を披露したくて書いたのではなくて、実は、[ぶぶ漬け]伝説のようなものは、もうなくて、伝説だけなのか?それとも、僕が体験した特殊なことで、玉木さんがしてくれたことなのか…祇園の真髄はどっちと積年の疑問だった。松井今朝子三は厳格に[ぶぶ漬け]を躾けられて、それを実行していた。
 『師父の遺言』を読んでつくづく思うのは、そしてこの歳になるとようやく分かるのだが、真実のようなものは、一つではなく、それはそれぞれに真というものは存在するものなのだと。しかもそれがたった一つの真実のような顔をして。実は、両方ともが真実なのだ。僕のしてもらった、たぶん、特殊な体験も、背後に厳格な[ぶぶ漬け]があったからこそなのだと思う。規範のようなものは、きつければきついほど、そこに関する修羅のような辛さもあるが、またそれゆえにの所産もあるというものだ。それが松井今朝子であり『師父の遺言』に書かれているきつさでもある。(松井はさらりとその時の感情を反映させずに書いている)一方、僕は、その規範の外れの方で、そのきつさゆえの例外のような息抜き場で、自由にさせてもらっていたのだと思う。だから[ぶぶ漬け]は存在するのだ、本から教えてもらった。

[歌右衛門がインセンティブ]


 舞台にはただ真っ赤な衣裳を着た歌右衛門の半身が大きく拡がってゆらゆらするのが見えるだけで、他は何も目に入らなかった。
松井今朝子は両親に連れられ、南座一階席で顔見世『伽羅先代萩』を見ていた。この年、京の顔見世で中村歌右衛門は『茨木』もつとめている。政岡の歌右衛門は[わが子を無残に殺された憤りや壮絶な苦悩、もうわが子にあえなくなる深遠なる哀しみをここぞとばかりに吐露して身も世もあらず慟哭するのであった]——中村歌右衛門の長い全盛期のなかの一日。目撃する松井今朝子は、
 [舞台にはただ真っ赤な衣裳を着た歌右衛門の半身が大きく広がってゆらゆらするのが見えるだけで、他は何も目に入らなかった]
 まわりが暗くなり歌右衛門だけが大きくなって揺らいでいる——松井は、この幻視を確かめるために、もう一度、歌右衛門の政岡を見るために、生まれてはじめて自分のお小遣い800円をはたいて三階席に座るのである。
 [かくして、もう一度きちんとこの芝居を舞台からかなり離れた三階席で見直そうとしたのである。しかしながらこの場面にくると、三階席にいても舞台や場内の明りがすべて消えて、歌右衛門の姿だけがぼうっと赤く光っているように見えるのだった。]
 三階席でも周囲の明りは消え、歌右衛門が浮かび上がる——この体験が、松井今朝子をして東京に、早稲田に、松竹に、武智鉄二に…という歌舞伎のとてつもなくディープな箇所だけを選んだのではないかという歌舞伎の道を邁進するのである。至る流れも体験も特異ではあるが、もっと変わっているのは、これら一連の事柄は、彼女が選んだのではなく、彼女は選ばれて、運命のように突っ走ったというそのことである。34歳、彼女自身が、人生のピークと云うことが起きるまで、この怒濤の日々は一時も休むことなく続くのである。摩訶不思議人生ではあるが、本を読んでいると、彼女にとって起こるべくして起こっている必須の出来事であるようにも見える。
 自分がちょうど歌舞伎を見はじめたのは、松井今朝子から20年ほど後のことだった。僕がはじめて見たときの歌右衛門はオーラが[とちり]くらいまでしかとどかなくて、遠くで見ていた僕には惚れるべき相手ではなくなっていた。松井今朝子から20年の遅れで見始めている僕は、おまけにモダンダンス、暗黒舞踏に染まっていて、しかもその舞台をいくつか手伝いもしていて、はじめて歌舞伎の踊りや日舞を見た時は吃驚した。
 なにこれ?言葉を振りにしているだけ?…踊り手の意志はあるの…今思うともうほんとに失礼な感想をもった。松井今朝子はそれを聞いて、「踊りを見に行ってるでしょ。日本舞踊は、向こうから来るまで待っていればいいの。待ち続けるのよ、じたばたしないで。」とすぱっと一言。
 その頃、僕は自社で『歌舞伎はともだち』を編集していたから、ド素人の僕は、日本中で行われている歌舞伎公演をすべて見ていた。毎月毎月。あたりまえだけど全部自腹。公文教の歌舞伎公演、西廻り、東廻りも一回か二回は必ず見ていた。(これが手を抜く旦那達の面白い芸が見れる。若手の大失敗も)金毘羅も…そして下呂温泉の小芝居も見に行っていた。当時、歌舞伎はバブルだったから、興業はほんとに各所で行われ、一ヶ月のうち20日間歌舞伎の客席にいたこともあったと思う。
 芝居は粗筋があるので、駄目な舞台もどうにかなるが、踊りの舞台は相変わらずで全然、ちんぷんかんぷんだった。歌右衛門と、玉三郎と、梅幸の『道成寺』の差が認知できない。…松井さんに教わったまま、ただただ何もせず、云えば口を開けて(何かが入ってくるかと思って)ぼーっと見ていた。頭を動かさないで舞台を見るのは、その当時の自分にはちょっとした苦痛だった。
 そうして、ある日のこと、国立劇場の二階から見ていた尾上梅幸の踊りに…「ああ、良い踊りだ…」と、心がかってに動いて反応した。と、梅の香りが身体に薫ったような気がした。気がするっていうことは、[した]ということだ。以来、少しだけだけど日本舞踊も愉しめるようになった。
 すぐ調子づいて、先代・井上八千代を追っかけるようになった。八千代さんが巴会の座敷舞いで『猩々』を踊られたときのこと。猩猩(井上八千代)が舟から降りるとススキの雲海が目の前に拡がり、猩々はふっと人になり、僕の背後に月を浮かべ、舞いを披露した。心は踊り手とともに雲海に彷徨い、気づくと目の前にはもう誰もおらず蝋燭の火がちらちらと影を落としていた。踊りに魂を盗られるというなら、以前、笠井叡に天使館で抜かれたことはあるが、風景がでるのは、はじめてだった。。
 零の何もない座敷に出てきて、風景をまずそこに設定してから踊る。…それが井上流と理解した。(勝手に…)
 『猩々』を踊りが終わった後の食事会で、先代八千代さんに呼び出された。(知己はない。呼びに来た当代八千代さんとも知り合いではない)「今日は如何でした?いつも私の舞台を見ていただいてありがとう。」(京都の言葉でおっしゃったと思うが再現できない)え?追っかけをしているのを知ってられるのですか?と、聞きたかったけれども、もじもじと「踊り良かったです」とたどたどしく子どものような答え。いや子どもの松井今朝子ならなんと答えよう…。「もっとしっかり云っていただかないと困ります」と、ぴしゃりと云われたので、雲海の話をした。踊りがどうのこうなんてとんでもない、踊り見えてないんだから…。
 舞台はほんとに恐ろしいものだ。客として自分のレベル最大に演者と対峙するつもりでないと演者に迷惑がかかる。その揚げ句の僥倖なのだが…これは100%松井さんのアドバイスからもらったプレゼントで、日本の踊りを見るコツを教えてもらったことの所産である。アドバイスでこれだけの力を発揮するのだかから、本人の眼力たるや…
 松井今朝子は、2歳で芝居をみはじめている。文学座、新派『瘋癲老人日記』(花柳章太郎、英太郎、初代水谷八重子)もちろん歌舞伎、新国劇(辰巳柳太郎、島田正吾)も見ている。もちろん文楽もあたりまえに見続けている。この恐るべき能力は、その見ている舞台が時代のピークだったこともあり、昭和の名優たちを総嘗めしている。
 知りたいのは、松井今朝子にもともと備わっている才能のようなものなのか、それとも三歳から見て云わば舞台の名優たちに鍛えてもらったからなのか。両方なのかもしれない。とすれば、それは惑星直列のような希代の奇蹟であり、それが『師父の遺言』に記されたのは、僥倖と云うべきことなのだろう。ちなみに、芸能に20年遅れて入るのは、たとえ見るだけのことでも、まぁ…全然…なので、同じサーキットにいると思わない方が良い。(僕のこと…)
 松井今朝子は歌右衛門の舞台を動機に、東京にでて歌舞伎にのめっていく。

[踵を返す]



卒論で人形浄瑠璃の戯曲を対象とした~現存する浄瑠璃本の九十パーセント以上、約二千四百冊を所蔵する演劇博物館が学内に控えていたからで、時間の許す限りそれらに目を通そうとした。(P88)
  
そうして学界の先生方に評価を受けて、いわば教諭から彼女の取り合いのような形で、大学院を勧められると…松井今朝子は、
 私は学界のトバ口に立ったところで速やかに踵を返そうとした。
 実際には、大学院にはすすむのだが、その卒業前に踵を返すのである。とことんぎりぎりのところまで、やって、もうこれ以上は自分としては、一歩も先に行かれない/行かないというところで、[踵を返す]。未練も残さず、すぱっと。男前というのともちょっと違う、切れ味だけが後に残る[踵がえし]。大学院でも、演出でも戯曲でも松竹に勤めたところでも…。本人は、「面倒な場所からは逃げの一手を打ちやすい」(134P)と云うが、いやいや、よくそこまで我慢しているなぁと感心するほどのところまで、やっての[踵返し]。それは、その先もずっと続いていくのだ。
 余りに鮮やか過ぎてまるで小説のようだ。小説よりも鮮やかだ。受けてつき合い、そして嵌まって、踵を返す。これが松井今朝子の生き様であり、たぶん、歌舞伎史上こんな関係者は、存在しなかっただろう。(何度も言うけど)だからこその筆致。それが故の精緻でクールな、目配りの利いた、無理偏に難題みたいな歌舞伎の不条理を受けきるのである。で、歪まない。つくづくのこの人に、今の歌舞伎を差配させたらどれほどに面白いか、そして改革になるか…とも思うが、それは外野のお節介な感想というもの。というのは、松井今朝子——時として、いや元々「文楽は観るもんでのうて、やっぱり聴くもんどすなあ」というような本質論をあっさりと吐露することががあって、それがまた限りなく魅力的で、時折そうした釘をさしながら役者を立てていく、プロデューサーがいたなら…な。今の惨状を救ってくれるのではないかと思ったりする。

[私が泣いた夜]
 近松座の第五回公演に武智鉄二の演出助手に駆り出されて、演出家と役者と行き違いを処理するために、双方の言い分を聞きながら叱責されるという目にあっている。彼女は、その間を、五往復、十往復させられている。
 「それは永遠に続きそうな罰に感じられて、いっそ狂言方の前で土下座をして頼み込んでみようかという気にさせられたが、それをしたら人間としておしまいだと、辛うじて踏みとどまった一瞬の心境は、今に忘れがたいものがある。」(P209
 舞台は今でゆうパワハラ、セクハラが通常だから、さもありなんというところがあるが、十往復というのは、聞いたことも見たこともない。どこかで誰かが納めるように手を貸すべきだし、十はちょっと異常。そこまでいくと演出家の責任もある。松井今朝子は家に帰って布団で泣くのであるが、理由があまりのことに驚いた。これはぜひ本を読んでいただきたい。
 ちなみに自分もここまでではないが経験はある。現代舞踊協会経由だったと思うが、俳優座の舞台を借りて、公演を打ったことがある。折田克子、泉勝志、若松武史、そして音響にはなんと飴屋法水を起用していた。初日俳優座に行くと、音響の部屋を明けてくれない、音の取り入れ口を教えてくれないという意地悪をされた。俳優座の座付のスタッフは、俳優座そのものを住処のようにしていて、昨夜の酒の匂いをぷんぷんさせた音響スタッフが、卓の下で寝ていて、くだを巻かれたという次第。何度も交渉をすると、みんなの前にでてきて、「このお兄ちゃんがみんなの前で土下座してくれるってよ。そしたらやってやるよ」と、舞台面でちんぴらのような身振り口ぶりで言い放った。ゲネプロの時間が迫っていたので、僕は土下座をした。(一生に一回のこと。現在に至るまで。)松井さんと大きな違いだ。
 松井さんの人間としてというのは、舞台人としてと読んだ方が良いように思う。十往復も演出助手の立場として決して引かずに誰かが諦めるか引くまで続ける。でも、これはそこにいる全員の前で、たった独りでやることだから、とてつもない嫌な感じと人間不信が残るはずだが、松井今朝子は、ここで踵は返さない。返すのは、大きく仕事をやりきった後のことだ。
 僕は舞台を良い演者と、良いスタッフだけでやるというふうにつとめているが、歌舞伎でもちろんそれはできない。歌舞伎一家にはさまざまな種類の、さまざまなレベルの人たちが集まって、生きているからだ。信じられないほど下手なくせに、煙草を吸っていて場面に遅れる坊ちゃんが平気で大きな顔をする世界だから。舞台関係者なら、この章を読むだけで、松井今朝子の意地っ張りと云うか、逃げない姿勢と云うか、真摯と云うか…最高の舞台人であることが分かるだろう。
 僕だったらたぶん、武智鉄二に台本を叩きつけて、その場で辞めている。間違いなく。もちろんこの場面で土下座をしようとは、僕も思わない。土下座で解決はつかず、いったんそうして引いたら、歌舞伎の人たちには[舐められ]てしまうのだ。あいつはそういう奴だと。松井今朝子十往復の地獄をやり終えて、きっと、歌舞伎の人たちや役者やスタッフは、一目も、二目も置くようになると想像する。まちがいなく。そういうところなのだ歌舞伎と云うところは、舞台は。(天井桟敷はそれはなかった)

[人生のピーク]

 私はその日を人生のピークと呼んでいて、今でもそう思う気持ちは変わらないし、死ぬまできっと変わらないような気がする。
 にもかかわらず正確な日付の記憶がないのは甚だ不本意ながら、昭和六十三年(1988年)のたぶん三月初旬だったのではないだろうか。
 とにもかくにも私はその日、まだ三十四歳の若さで、早くも人生のピークに達したという実感をえたのである。(P231)

その日、とは、松井今朝子が、人生のインセンティブとなった歌右衛門にインタビューをした日である。その時の印象を松井は舞台で見たときとは違って受け止めている。ここで引用はしない。松井の小説の文体は、歌舞伎のト書きのようにクールに描写されているが、ここぞというときに清元のように詩情たっぷりに情景をうたう。義太夫のようなドラマティックな語りでもなく…。その心の昂揚で滑らかに熱を佩びる文体は、まさにクライマックスに相応しく素敵であるので、図書館で借りてでも、この章は読み味わっていただきたい。

 さて、お邪魔にも最後に自分の話をすれば…
 80年代前半から91年あたりまで、未曾有のバブル経済が日本を覆っていたなかで、84年あたりが自分の仕事のピークで、ヨーゼフボイス、寺山修司、土方巽との大きな仕事、アヴェック・ピアノのカセットブックが83年…現代美術にも
かかわったし、なにせインディペンデントなのに、『夜想』『銀星倶楽部』『WAVE』『EOS』という雑誌の編集長をしながら、広告もなしに4誌を廻していた。85年を過ぎたあたりからは35歳になったら絶対に引退すると公言していた。
 本格的な現代美術(森村泰昌、大竹伸朗、舟越桂、宮島達男…)が日本でも活動を始め、僕はRTV(ラジカルTV)を動かしたり、EP-4というオルタナティブバンドをプロデュースしたりしていた。ちょうど昭和を席巻した文化が一区切りつけて、新奇な文化/サブカルチャーも頭をもたげてきたときだった。サブカルチャーが好きでなく、本格文化だけを標榜していたので、ここが潮時と本気で考えていた。
 『歌舞伎はともだち』は、松井今朝子にいろいろ教わって助けられて92年に出版した。松井今朝子の人生のピークの88年には、まだ知りあっていないと記憶する。90年に祇園に本格足を踏み込む話は、前半に書いたが、松竹の上演記録を見ていたら、なぜか前年89年の京都顔見世にも行っていたことに気がついた。そこに中村歌右衛門が出演している。寝ていたのか…僕の印象には薄かったのか…。演目、演技をまったく思いだせない。記憶にないのである。ちょうど人生折り畳んだ半分の34歳の松井今朝子と、35歳の僕は、またしてもまったく違う歌舞伎との係わりである。歌右衛門に心盗られ、そして終着として感度的なインタビューをして、誰にもできないひと括りをした松井と、その次の年から本格的に歌舞伎にのめっていく僕とでは、ぱたんと折り返す書割の幅木絵のようなもので、裏表重なりもせず、しかし同じ時代を生きているのである。
 そうして地べた好きの僕は、しだいに三階さんと呼ばれる仲居や立廻りの若い衆(若くない人もたくさんいた)に興味を抱き、取材して廻るようになるのである。歌舞伎の知り合いは、今でも三階さんという脇から上がった人たち…あるいは、いまだにその位置で誇り高く仕事している人たちばかりである。

[コーダ]


 [師父の遺言]を、読むのに、自分の半生をそこにあてて、かつネガポジ反転させ、風景として身体に入れるという特殊な読み方をしたのだけれど、云わば、読むこと自体をドキュメントしたと思っている。だけれどもそうすると、武智鉄二だけが取り残された。武智鉄二のところは、噛み切れないし、飲み込めない。きっと噛み続ければ味も分かってくるるかもしれないが、たった今は難しい。
 武智鉄二には、謎が、ちりばめられている。まったく歯の立たないような話もあれば、
 「台本はもっと散らさなきゃ駄目なのよ」と松井さんの書いた台本に対して、言う、武智鉄二。
のように、答えではないが重要な案件として身に染みる話もある。僕はずっとずっと、散らしかげんを考え続け、現代美術のインスタレーションや、雑誌の編集現場で、やろうとして巧くできていないという思いをもち続けてきた。人形を販売するときにも、[散らし加減]が必要だ。実際に売れる売れないに関係してくる。たぶん料理にも言えるのではないとも思う。[散らし加減]の答えは書かれていない。ヒントすら…。
 思うに武智鉄二は、大いなる疑問を強烈に創作現場で提示した人なのではないか。もしかしたら答えを知っていたわけではないような気もする。しかし答えを追求して、提示してみて、そこに本気で反応する人がいたら、それがこれからの道の一端になる。松井今朝子はその一端を、比較的無理やり武智に持たされたのではないだろうか。僕には、その一端を見ることも触ることもできない。武智鉄二はどこまでも未知の壁である。しかしながら『師父の遺言』を読んだので、武智の映画を見たり、著作にあたったりしながら、ここに書かれている解けない謎を考えてみようとは思っている。
 ゆっくりとゆっくりと不可能だとは知りながら。松井今朝子が紹介してくれた肖像を参考に。
 #わたしの本棚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?