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苦海浄土

"この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ"1969年発刊の本書は水俣三部作の一つにして、唯一無比の私小説かつ現代詩。

個人的には池澤夏樹が『現代世界の十大小説』と高く評価している事は知りつつ、水俣病という重いテーマに何となく積読にしてしまっていた本書。自身が主宰する読書会の課題図書にして、ようやく手にとりました。

さて、そんな本書は自身は"詩人であり作家"と否定するも、執筆活動のほかに水俣病に関する活動を行ってきたことから『日本の”沈黙の春”レイチェル・カーソン』『水俣病闘争のジャンヌ・ダルク』とも評された著者が、熊本・水俣の私企業、チッソ。地元の財政や雇用には多大な貢献をする一方で、その工場からの【無処理で垂れ流した廃液に含まれた有機水銀】によって、多くの漁民たちを悲惨な奇病に陥れた公害病事件【『水俣病』の発生から認定されるまで】の様子を一応は時系列に沿って描いているのですが。

まず、前述した先入観もあって、また確かに本書では【発病し苦しみながら死に至るまでの患者たちの姿】が重たく記録されていて。2021年現在、発生から約70年過ぎて。また1997年に水俣湾の安全宣言がなされ漁業が再開された今になっても生々しく【映像的に再現され、胸に迫ってくる】ものがあるわけですが。とは言え、そこから予想される。著者による『感情的・扇動的な告発の書』では決してなく。患者たちの悲惨な状態になっても、なお輝きを失っていない姿『人間の尊厳や希望』を、まるで【本人から魂を大切に預かり、成り代わってかたっている】抑制され救済されるような内容だったのに驚かされました。

また本書では、著者による標準語、住民たちの方言(熊本弁)カルテや判決、新聞報道といった”様々な語り”が『加害者でも被害者でもない』著者という浮遊的、俯瞰的な定点を保ったまま、まるで【オーケストラのように重層的】に"繰り返し押し寄せてはかえす"海の波のような。独特で圧倒的な読後感を与えてくれるわけですが。【社会的に立場の弱い人たちが真っ先に犠牲にされる姿】には憤りを感じつつ。しかし、ここで描かれている事は決して過ぎ去った昔の話ではなく、フクシマ原発、今のコロナ&オリンピックにおいても【変わらず繰り返されているのではないか】と感傷的な気持ちになりました。

水俣病、公害病に関心ある方はもちろん。唯一無比の文章に触れたい方にもオススメ。

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