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「小確幸」が教えてくれたこと

情けない話だけれど、最近、体調があまり安定せずに文章を「書かない」日が続いている。

あえて出さない。放出する努力を放棄して、一旦、じっとしてパワーをためるイメージがずっと頭の中にある。

ただ、物語はそうはいかない。
自分の場合、「物語」と「現実」は頭の中で二重構造になっているようで、普段、いついかなる時でも頭の中で快活に生きている「彼ら」の風景が見えてしまい、慌てて「その風景」だけを書き残すということもある。

最近はそれも抑えているから、「その風景」がループしている。

まるで、カセットテープに似た動きだ。再生し終えたら鉛筆を穴に突っ込んでグルグルと戻す作業を、子供の頃によくやった。

自分は今まで、比重としては7対3くらいで現実と物語の間を生きてきた。
ちなみに、7は物語で3は現実。客観的に見ても、これでは現実でまっとうに生きていない。

BBCのドラマ「SHAROCK」から引用すると、現代に生きるシャーロック・ホームズが自称した「高機能社会不適応者」とでも呼ぼうかなと真剣に考えているほどには、重症だ。

なので、「小確幸」と村上春樹氏が呼ぶ「小さいけれど確かな幸せ」を重点的に見つめ、「現実も楽しいんだぞ」と自分を誘惑することにした。

たとえば、可愛い野良猫と目が合うとか。
たとえば、マスクを外した直後に吸い込む空気の美味しさとか。

暖かな日差しの中を歩くこと。川の流れを見つつぼーっとすること。鳥が飛翔する姿がきれいだと思うときには胸が高鳴る。

そうすると、自然が当たり前のように持っている「不思議」が頭の中でランタンの光のようにポッと灯る。

鳥が飛ぶ姿は、理屈ではその翼で空気をうんぬんして飛翔しているのだとわかっていても、いつも不思議。

小さな体で寒さに耐えちゃう虫たちも不思議。季節によって雲の形や透明度が変わる空も不思議。

その「不思議」を見つけると、それを見つけられる自分がいるということにホッとする。
焦っていては、決して見つけられないもの。
見つけようと思わなければ、見つけられないもの。

それを見つけたという「小さくても確かな幸せ」を噛み締める。

「生きる」っていうのはずいぶんと長い長距離走だなぁ、と、最近感じることが多くなってきた。

昔から長距離走が苦手で、道端でぶっ倒れて救急車でも読んでもらおうかと考えるぐらいには嫌い。(ちなみにぶっ倒れ計画は、田舎の学校だったために栗のイガイガが散乱していたので諦めた)

それなのに、「生きること」自体が長距離走だったなんて、正直この年齢になるまで信じられなかった。なぜか、自分の人生は短く終わると思い込んでいたらしい。

しかし、そう気づいてしまったら、「あぁ、仕方ないなぁ」と、ため息をつくしかない。そして、長距離走が大の苦手だった自分は、対策法を一つだけ知っている。

長距離走では、ゴールではなく、電柱を目指して走るのだ。

息が苦しくて頭が痛くて足がだるくて、それでも目の前にある電柱に向かって走る。「あぁ、走り切ったな」と安心したら、次の電柱が見えてくる。

ぶっ倒れてもいいけど、その電柱まで頑張ってやろう。

そうすると、いつの間にかゴールへとたどり着く。

「小確幸」は、もしかするとそういう「電柱」の役割を果たしているのではないだろうか。

知人が大変な目に合っていたり、世の中も大きなうねりを持ち始めている昨今だから。

今の人々に必要なのは、大きな目標ではなく、電柱のように静かに存在する小さくても確かな幸せを見つける心と、掴む力なのかもしれない。


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