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牛蒡の味を知って大人になる

映画なら主人公が漫然と日々を過ごしているのなんて冒頭5分程度の話なのに、こちらの人生とくればいつまでたっても物語は動かない。がさっと心も身体も攫われてしまうような瞬間は、物語の始まりは、まだか。

これまで私は、コラムとも日記ともつかないような文章をwebのあちこちにばらまいてきた。それらを今、ふと思い立って読み返してみると、あるときには安月給でも無我夢中で仕事をしていたり、またあるときにはどうにも説明がつかないほど愚かな恋にのめり込んでいたり。こんな私でも、このときはたしかに物語の最中にいたのだとありありと感じさせる、そんな時期もある。

直近の七転八倒した恋愛に落っこちた日の記録もwebの海に漂っていたが、前日まで婚活に対する徒労感を書き綴っていたというのに、ある日突然「一粒の恋する気持ちが世界を変えた」と書いてある。我ながら小っ恥ずかしいものだ。けれど、読んだ瞬間から「これは恋かも」と自覚した時に乗っていた丸ノ内線の風景がブワッと思い起こされる。透明な液体の中にインクが垂らされ、赤く赤く広がっていくように、不意に恋愛感情が自分の中に訪れて世界の見え方が変わってしまった日。今思えば、その日からひたすらに鮮やかな日々だった。彼の腕の中にいるときは、ここまで死ななくて良かった、生き長らえて来たのはただただここに来るためだったと心から思った。結局は、そんな嬉しく甘い記憶よりも、息が詰まりそうな苦しい記憶が多いが、ありとあらゆる色とりどりの感情を味わわせてもらったなと思う。

そんな時間も気づけば過去のものとなり、いままた砂を噛むようなときを過ごしている。

最近私は会社で部署異動を命じられたのだが、異動先は業務量が多い上、慣れない仕事に四苦八苦している。食事をとる時間も、その準備をする手間も惜しくなり、空腹を満たすためだけにシリアルを口に運ぶ。夢の中で仕事をしていることもあるし、苦労して作ったプレゼン資料がサラサラ消える悪夢も見る。歯が痛くなって歯医者に行けば、食い縛りすぎて歯が削れていた。でもそんな仕事のお陰か、ずっと心に引っかかっていた彼の人の名前を夢の中で呼ぶことも、ほとんどなくなった。安堵もあるし、自分の中からあれだけの鮮やかな感情が失われたことへの哀しみもある。

こんな漫然とした時間がやってくると、これまでの私はそこから這い出ようと婚活や転職活動をしてみたり、勉強をはじめたり、どうにか次に目指す何かを作って走ってきた。そういうフットワークの軽さが自分の取り柄だと思ってきたが、もうその力が鈍ってしまったのか、最近はどうも上手くできない。学生時代のようなこってりした友人関係も維持できなくなってきて、LINEに返事をすることさえ踏ん張りがきかない。既読をつけるも、また後でにしようと返事を後回しにしてしまう。次の日になれば、何かの特典につられて登録した企業LINEからの通知に紛れて見えなくなるから、罪悪感にも蓋ができる。

ただただ、その日その日をこなす毎日。こんな日々を、無味と言うのだろう。人生を大きな物差しで測ったらこんな時間の方が多いのかもしれないけれど、先を見通せない味のしない毎日では、じんわり呼吸が止まっていかないか、時々心配になる。

そんなことを考えながら過ごしていた、ある日の会社からの帰り道。疲れ果てお腹が空いていたので、閉店ギリギリの弁当屋で夕食を買って帰った。唐揚げと炊き込みご飯のお弁当。家について炊き込みご飯を一口食べると、牛蒡の香りが口の中に広がった。やけに美味しくて、はあとため息が出る。そして、久々に口角があがった。

大人になって好きになった食べ物というのは、皆あるものだろうか。私にとって、そのひとつが牛蒡だ。小さい頃から食べられはしたけれど、あの土っぽい味を特別美味しいとは思わなかった。でも今は、あの滋味深い味がやたらと好きだ。こってりしたものをたくさんは食べられなくなってきた代わりに、独特の苦味のあるあの味を美味しいと思えるようになった。定食屋さんの付け合わせに牛蒡が入っていると、今日は当たりだと思うし、筑前煮に入っているものは順番を考えながら大事に食べてしまう。自分で調理するには面倒なので、正直なところ私の食卓への登場回数はさほど多くないけれど、牛蒡がたっぷり入った豚汁だけは冬になるとどうしても食べたくなる。他に作ってくれる人もいないので、泥を落とすのが面倒だとぶつくさ言いながらも、台所に立つ。母が作ってくれていた時には有り難みを感じられなかったが、自分で作ると「やっぱり豚汁の味の決め手は牛蒡だなあ」などと旨味を見つけて感謝したくもなる。

炊き込みご飯を咀嚼しながら、ここのところの私の生活の味わい方は、どうも牛蒡を食べているときのようだなと思った。無味乾燥だと思っていた日々に、最近は牛蒡のような滋味を感じるようになってきている。

私は人の何倍も稼げるようなキャリアウーマンでも、仕事に没頭するワーカホリックでもないけれど、自分の勤めは果たそうと努力しているし、小市民なりのやりがいを持っている。自慢できるような輝かしい実績など無いけれど、社会の一員として勤労と納税の義務を果たそうと頑張っているのだ。

楽しそうな予定、例えば小旅行や、気の置けない友人との食事をたまの土日に入れておく。その日に思いを巡らせながら、苦しくてもなんとか平日を泳ぎきる。予定が終わってしまえば、またひとつ生きる理由を失って小さく絶望したりもするが、「今度旅行に行ける時はどこにしようか」などと気を取り直し、ほのかな希望を明日以降の自分につなぐ。

最近は気分転換したくなると近所の銭湯を訪れる。湯に浸かりながらジャグジー風呂のコポコポという音、シャワーのザーザーという音や、ケロリンの洗面器が置かれコトンと響く音を聞いていると、何だかすっと気持ちが整ってきて、たまにこうして銭湯に来られるような生活を続けられるのであれば、他にすべきことなど何もないというような気持ちになる。自分は結構真っ当に生きているし、そして生活まで面白がれている。そう感じられるようになってきた。憧れたキラキラした生活とは違う無味だと思ってきた自分の生活だって、ちゃんと味わってみれば旨味があり、意外なほど満ち足りている。

こんな風に言えば、「何気ない日々に幸せを見出して、ご自愛しよう」というような積極的な選択だと思われるかもしれないが、私の場合は「こうでしかいられない」消極的な選択だ。平凡な日常にこそ幸せがあるだなんて、こんなものは、何かを為したいという情熱が欠落しているか、あるいはどこか諦めてしまった人間の処世術なのだとわかってはいる。子どもの頃嫌いだったものが食べられるようになるのは、苦味を感じる味蕾が死んで行くからだという悲しい話を聞いたことがあるが、そんな風に自分の諦めにただ鈍感になっているだけと言われても否定できない。

でも、一人暮らしをすれば知らず知らずのうちに自炊を覚え、豚汁が作れるようになったように、下手くそに人生を進みながら、苦味のある人生の調理法を覚えてきたのかもしれないとも思う。というか、そう思いたい。ごく平凡に、淡々と日々を生きていることを無味だとジャッジしてきた自分や、あるいは世間の方が間違っているかもしれないじゃないか。

「自己実現」が本当に叶えられる人など、一体どれだけいるのだろう。そう言ってしまうのは悲しいことなのかもしれないけれど、どうやら世の中では、いい年した大人たちが不器用ながらひたむきに生きているようだ。そう気づきはじめて、人間など大体小さな希望をかろうじて繋ぎながら生きているものなのだろうと思うようになってきた。大人になって好きになった牛蒡のように、苦味も渋みも旨味も一緒くたに噛み締め、味わえるようになったことは、そう悪いことでもないと今は思わずにいられない。むしろこういう時間を肯定するほうが、足りない自分を無闇に否定するより難しい。簡単に自己否定ばかりできた時期はいつの間にか超えてしまって、今は、もう少し自分の人生を信じてやりたいという気持ちが自己否定を拒みはじめている。苦い思い出にも、淡白な日々にも、その味わいを見つけていくことが大人になるということなのかなと、今は思っている。

誰にも見えなくても、少しずつでも、きっとちゃんと根は伸びていく。


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