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マッチョな必勝パターンが敗北するとき

時々猛烈な焦燥感に襲われる。

もう30なのに大した仕事もしていなければ、結婚も出産もしていない、やばい。

この先ずっと一人で生きていくのかな、お金は足りるのかな、いつの間にか一人ぽっちで寂しい苦しいって言いながら死んでいくのかな、とか。

こんなことを言っておいてなんだが、仕事はしているし話を聞いてくれる友人もいるし、年中こんな悲観的なことばかり考えているわけでもない。でも、ホルモンバランスなのか、気圧の変化のせいなのか、焦燥感の波は度々私を襲って飲み込んでいく。飲み込まれた私はSNSに苦しいと呟いてみたり、一人ベッドで丸くなって泣いてみたりすることになるわけだ。

でもそんな波も数時間、長くたって数日すれば、少しずつ引いていく。

そうした頃に頭を巡るのは、じゃあこれからどうしたらいいか考えよう。どうにかコントロールして、望まない結末を回避し、幸せなゴールに到達すればいいじゃないか、という思考だ。

私はどうやら自分に対するコントロール欲が強いらしい。友人たちなら「まあうまくいかなくても仕方ないよね」と言いそうなことも、私は余裕に構えられるところがなく「どうにかぎりぎりまで手を尽くして思う方向にしなければ」と思う。なかなかマッチョな自分が頭の中に住んでいるのだ。

私の平日は「コントロールすること」に心血を注ぎ込んでいる、と言っても過言ではない。

私のキャリアの中で一番長くなったのは経営企画の仕事。名から想像されるようなクリエイティブな仕事というより、売上やコストの計画や予測を立て、実績と答え合わせをし、ズレればその原因を把握し、どうしたら予測通りいくのか、あるいはどうしたら予測精度が上がるのか、どうにかして予定通りの利益を出せるか、みたいなことを考えて改善するような仕事をしてきた。

ビジネスの世界では、最終的なゴールを設定して、そこに向かってじゃあいつまでにどんな状態になっている必要があるか、と山登りのように考えるやり方が主流だ。精度の高い予測は人やお金や様々な資源を動かす意思決定をし、コントロールしていく上では必要不可欠だし、それなりに面白みを感じながら仕事もしてきた。

元々自分に親和性があったからこんな仕事が続けていられるのかもしれないが、目標に向かって線的に進む手法は私のプライベートな時間をも支配している。

街を見渡してみても就活、婚活、妊活、保活、終活……兎にも角にも結果にコミットな世界になりつつあることは、既にたくさん語られている。合理的であれ、自己責任でどうにかしろ、というメッセージは、モノやサービスを売りたいマーケティングと共犯しながら、私たちを能動的な活動に駆り立てる。そんな世界の中にいればそりゃ思う「能動的に人生をより良い方へ進め、『幸せ』になりたい」と。

私が最もがむしゃらに仕事をしていた時期と、以前の彼氏と別れたタイミングは期せずして同じタイミングだった。あと3年で30歳。うかうかはしていられない(と、その時は無意識にそう思った)。

仕事では、目標=ゴールを設定し、そのゴールにたどり着くまでの道筋を引き、KPIを決めて行動しなさいと言われる。じゃあ恋愛だってそうすればいい。人気の恋愛コラムにだってそんなことが書かれている。自分をコントロールしていけば、素敵な結婚にたどり着けるはず。

そうして私は行動した。まさに婚活パーティーというようなイベントから街コン、紹介、合コン、アプリに、勉強会みたいなもの(と言いつつ新たな同世代の男性との接点作り)、趣味の楽器の誘いも普段なら断るようなものも全部受けた。同じ趣味の新しい出会いがあるかもしれないからだ。

ここまで色々動いていてみれば、いいかも、と思う出会いがなかったわけではない。けれど、最後の一歩はいつも踏み出せず、結果にはつながらなかった。

実は結婚相談所にも入りかけた。「始めるなら20代のうちが良い、その方がいろんな人の射程に入りやすくなる」というセールストークにも納得し、普段なら手を出さない婚活に向きそうな服を買い、数万円かけて写真まで撮った。

様々なコースの説明を聞いて、どのコースがいいかな、などと入ること前提で考えていたのに、いざ申込書にサインせん、というタイミングで「あ、わたしここでサインしたら数ヶ月後には何十万払って本当に結婚するんだ」と実感し始め、途端に怖くなった。親切にしてくれた婚活コンシェルジュのお姉さんには悪いが、考えさせてくれと断ってしまった。

結局私が何にも選べなかったのは、ゴールそのものに疑問が生まれてきてしまったからだった。

目的に向かって直線的に努力するこの考え方に必要なのは、明確で明文化されたゴールの姿だ。だからこそ世の中の会社は、ビジョンやらミッションやらを言語化しようと躍起になる。会社であれば定性的な価値のゴールを置けなかったとしても、会社が潰れないように利益を出す、という圧倒的にわかりやすいゴールがある。

婚活でも自分の好みをはっきりさせた方が良い、いつまでに結婚したいか期限を決めよう、譲れないポイントを明文化しておきなさい、みたいなゴール設定はめちゃくちゃ初歩の段階で言われることだ。

その効能は実体験としてもよくわかる。なんとなく勉強するより「〇〇大学に入りたい」という動機は、高校時代全く勉強せず成績も落ちこぼれだった私を「今日は10時間しか勉強できなかった」とさめざめ泣いて周囲を困らせるくらいまで、勉強に駆り立てた。趣味の楽器も「この曲を吹けるようになりたい」という目標一心だけで、仕事や生活の合間を縫うように練習時間を捻出するだけのパワーをくれる。

でも私は、どんな人とどんな家庭を築きたいのかも、そもそも結婚したいのかも、子どもが欲しいのかも、迷いなく答えられたことがない。

それはおそらく、不確実なゴール設定したくないから、だ。

私の育ってきた家庭は私が小さなころに父が出て行ってしまい、全くもって「理想的な家庭」ではない。自分で再生産したいとは流石に思えない。でも反面教師にして「両親が仲睦まじく一緒に暮らし、育児を協力し合い、子どもたちは素直にすくすく育ち、毎年家族で海外旅行するような暮らし」をどうにか実現したいかというと、考えるだけで気持ちがささくれる。そんな理想的な家でなければ幸せでないみたいで、自分や母や、何らかの不和を家庭に抱えても懸命に生きてきた人のこれまでを、どこか否定してしまうようで受け入れ難い。

それにニュースで流れてくる不倫、DV、虐待、ワンオペ育児、子どもの非行、ありとあらゆる家族の問題を見聞きするたびに、「『問題のない家庭』を、自分自身の過度な犠牲無く、納得してつくっていけるのか」という問いには「そんなの無理ゲーじゃない?」と思う。達成できない目標なんて、目指すだけ苦しいだけだ。

目標設定は低くしたくなるけれど、どこまでなら自分に許された幸せなのか判断しようも無いし、一方で「どんな問題も受け止めてやる」という覚悟もない。

多様なパートナーシップや家族の姿を知れば知るほど、どれも間違っていないと心底思う。色々な考え方を知り、世界が広がると同時に、パートナーになる人に自分の価値観を押し付けることになりやしないかと不安がもたげる。私にぴったりくる人、なんて簡単に私の目の前に現れるのだろうか。その人と出会うために、私はどれだけの努力をすればいいのか?

自分のコントロールに乗らない他人との関係が前提である限り、結婚や出産・育児は不確実性が高い。それと比較すれば、仕事のゴールはわかりやすい。個人にとってのゴールは会社から与えられる場合もある。自分のコントロールの力が及びそうなフィールドを選んだほうが、マッチョな思考の私には心安く暮らせるのかもしれない……などと思考は連なっていく。

「幸せ」に近づいていきたいという欲はあれど、幸せが未定義ではそれはできない。ゴールも明確にできないのに、間のプロセスばかり追いかけていても虚しい。

百人いれば百通りの幸せの形があると信じると同時に、自分のそれはどんな形なのか、よくわからない、定義できない、決めきれない。あちらに決めようと思えば、それへの激しい反論が自分の中で繰り広げられる。最早、ゴールを設定しろと言われることが苦痛だ。

何故こうなるのかずっと考えてきたが、今のところの私の答えは、「必勝パターンの罠」ではないかと思っている。

周囲の期待も織り交ぜながらゴールを設定し、そこに向かってわき目もふらず猪突猛進し努力する。受験も、部活も、仕事もそうやって自分なりの成果を上げてきた。このマッチョな思考が私の「必勝パターン」なのだ。そしてそれは、現代社会とおそらく親和性が高い。自分をコントロールしようとする私の行動は是とされるし、もっともっとと駆り立てる仕組みばかりが周りにあふれる。人は私のこの態度を「真っ直ぐ」「素直」「熱い」と褒めてくれることもあるし、自分でも長所ではあると思う。けれど速いストレートしか投げられないピッチャーのような生き方は、いつか行き詰まる。マッチョな思考だけで人生がするする進めばそれでいいけれど、現に今「必勝パターン」がうまく適用できない人生の場面を迎え、たじろいでいるわけだ。

本当はコントロールの手綱なんて離して誰かに明け渡してしまいたくもなる。何もかも導いてくれる白馬の王子様に全てを預けたい、人任せにしたい、というか責任を下ろしたい、という本音だってある。それでもなぜ、こんなにも「努力努力」みたいな思考にたどり着くのかというと、必勝パターンで勝ってきてしまってきたことの副作用なのだろう。このパターンから外れた成功の形がイメージできない。このパターンでなくても、何が起こっても自分は幸せに生きていけるという自分への信頼感の欠如を、必勝パターンは生み出している。

先日、祖母の家で一日過ごした日があった。祖母は私や弟のために夕飯を準備してくれた。祖母は米をこれでもかというくらい何度も何度も研ぎ続け、しばらく水に浸してから炊飯器のスイッチを入れる。

「そこまで研がないほうが美味しく炊けるよ」「この炊飯器は別で浸さなくても自動でやってくれるんだよ」一緒にいた叔母や母が声をかけても聞く耳を持たない。というか、もう受け止められないのだろうな、とこの光景を眺めながら切なかった。

自分の知っている凝り固まった方法しか選べないのは、やはり勿体ない。精米技術が上がっていることも炊飯器の性能が良くなったことも、恩恵は享受すべきだ。頑なな態度は時に様々な恩恵を遠ざけ、柔軟な姿勢はきっと人生を幸せに近づける。マッチョな思考全てを否定して、自分が純粋に頑張ってきたことまで否定する必要もない。けれど、今、自分のマッチョな思考に抜け穴を持つことは必要そうだ。

とは言え、自分を駆動してきた強固なソフトウェアをアップデートするのはなかなか大変な作業だ。外からの衝撃によって仕方なくやっているわけでなく、自分で迷いながらやり始めたばかり、揺り戻しだってある。新しい姿が見えているわけでなく構築中、不安定で宙ぶらりん。不確定要素ばかりの揺らいでいる自分のまま、今を積み重ねているだけの自分を許すことが第一歩なのだろう。

過去を振り返ってみれば、成果も縁も自分の努力でぐいっと手繰り寄せたものばかりでなく、思いがけないところから運命的な縁がポロっと差し出されたりもしている。

そんな自分の中のささやかな魔法や、小さな奇跡の存在を思い出して信じてみようかな、と今はひっそり思うのだ。


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