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自分と他者の境界線を引くこと

ちょっと読むのに根気がいる本を読むことも、文章を書くこともGWと共にサボってズルズルとここまで経ってしまった。週が開ければ東京の緊急事態宣言にも動きがありそうだ。準備運動ではないが、コロナ自粛期間のことをつらつらと書いておこうと思う。

私は3月末からリモートワークに体制に入った。業務の都合で途中半日だけ出社したけれど、基本的にはずっと家で仕事をして、近所への買い物や散歩以外は外に出ない生活を約2ヶ月送ってきた。

最初は慣れない生活リズムや深刻化するコロナ患者数の状況にちょっと滅入ってもいたが、しばらくすると私の調子はだいぶ良くなっていた。今求められているのは家にいて感染を広げないことだけ。毎日私の頭の中で響いていた、経済的、あるいはビジネスマンとしての成長や婚活市場の急げ急げという脅迫がすんっと止んだのだ。

寝るためだけにあったような一人暮らしの部屋に、デスクや飾り棚や収納グッズをAmazonや楽天や物流業の皆様に甘えながら揃えた。週末にまとめて片付けていた家事を平日にも天気や気分に合わせて少しずつ行うようにもなった。このタイミングでAmazonPrimeで『昨日なに食べた?』を一気見した影響もあり、しばらく積極的に料理も楽しんでいた。出勤していた頃の平日朝に穏やかな日なんて全く記憶に無いが、始業前にコーヒーを淹れてベランダでぼーっとしながら飲む、なんて優雅なことをできるようにもなった。今まで目を背けてきた普通の生活そのものが豊かになって、こんな得難い時間を手に入れたことを嬉しく思ったりもしていた。

ただ、気持ちがひたすら穏やかな時間はやっぱりそう長くは続かなかった。

一つは自分の仕事が忙しくなったこと。「リモートだから」という言い訳も5月に入ってから本格的に効かなくなり、やることが増えてきた。私の経営企画という仕事の性質上、コロナによる会社の利益の見通しを練り直さなければいけなくもなった。私の業界は少ない方なのだろうが、それでも無視できないくらいの影響がある。今後の予測など誰もわからないのに私にわかるわけがなかろうと思いつつも、どう転んでも受け身がとれるよう、考えを巡らせておく必要がある。仕事上の様々な課題を上手く解決したいと思えば思うほど、自分の能力の足りなさに落ち込む。落ち込みたくないからやりたくなくなる。でも仕事はある。自宅という際限なく仕事ができてしまう環境も相まって徐々に労働時間は伸び、生活も侵食され始めた。

あと、体重が増えたこと。2年前に自身の最高体重を記録してしまってから、運動は得意じゃないけどjump oneやジムに通って体重を落として維持してきたのだ。それが見事に元に戻った。最初こそ自宅で筋トレや近所のランニングも少ししていたけど、そういう一人での努力を続けるのが苦手だから安くないお金をかけて楽しく続けられる場に通っていたわけで、仕事が忙しくなってきたことも引き金になり、ぶくぶく身体が膨らんでいっている。食事制限だって頭をかすめるが、もともと大好きな食べることをこの状況下で奪われるのは絶対に無理だ。好きなものを食べるのを辞めたくなくて運動する方を選んでいたのに。ニュースを見ていると、ジムの再開はきっと最後の最後のフェーズになるだろう。開いていても感染が怖いという気持ちもある。今までの努力が水の泡になったようでつい落ち込む。

そして、1ヶ月前にはコロナ情報だけにほぼ限定されていたニュースが様々な顔を見せ始めた。検察庁法の改正や賭け麻雀に辞任、どうなることやら都知事選、甲子園の中止、直近ではテラスハウスメンバーの逝去のニュース。コロナとは直接関係のないニュースに心が揺さぶられることが多くなってきた。SNSはつい眺めてしまうけれど、開けば重く暗い感情のうねりを感じざるを得ない。未知のウイルスは怖いが、人間はもっと怖いじゃないか。その上、託児機能が奪われて疲弊している働くママたちの声や、どんどん苦しくなっていく店の悲鳴だって止んでいる訳ではない。

それに身の回りではちらほらと知人の結婚や新しい人生のステージについての話も聞くようになった。時間ができたからと、何かに挑戦している人もいる。こんな状況下だって人生を動かしている人はたくさんいるのだと、当たり前のことだけど突きつけられたような気がした。そうすると、穏やかだった心にさざ波が立つ。

この期間考えてきたことの一つが、自分と他者との境界線についてだ。

おそらく私はHSPと言われる種類の人間で、もともと自分と他者との境界線が曖昧だ。近くに機嫌の悪い人がいるだけで苦しくなるし、誰かによくないことが起こると、それは私にも起こるに違いないと不安になってしまう。ポジティブなこともそう思えればいいのだが、この性質はネガティブな場合により強く作用してくる。仕事で誰かに何かを頼む時や意見をする時にも、これを言ったら相手がどう思うかをものすごく気にしてしまう。おかげで物事がスムーズに進むこともあったことだろうけど、それに時間と気力を費やして自分が疲弊していくのも同時に感じていた。

私が自粛期間の冒頭で調子が良かったのは、自分と他者の境界線が物理的に引かれたことによるものだと思う。自分以外の人がいない環境で仕事をし、コロナ以外のニュースがほとんど入ってこない状況が、そうさせてくれた。自分と他者が別のものだときちんと認識し、余計なものを背負わなくなって楽になれたのだろう。今まで「自分が辛くならないためには、自分と他者との境界線を引くことが大事」だと言われて頭ではわかった気になっていたが、「こういうことなのか」と初めて実感できたような気がする。

でも真空のような時間はやっぱり長く続かず、「社会」がまた自分の中に流れ込んでくるようになった。しかも、つまづいた経済や出てきた膿にどう対処すればいいのか、多くの人が戸惑い疲弊している中で、流れてくる感情の量や質が変質しより暴力的になっているようにも感じる。

この情報や感情の濁流を真正面から全て受け止めていては、自分がもたないと正直思う。でもそうやって殻にこもるやり方をしてきた結果の最たるものが、本当に困っている人を助けようと思っていなさそうに見えるこの国の政治なのかなとも思っている。

きっと必要なのは、自分を開いた状態で、他者との境界線を引くこと。

他者に共感しすぎてイコールになってしまうのではない。自分と他者を切り分けた状態でなきゃ共に倒れてしまう。ただ、そんな切り分けた状態であっても、他者のことを思いやる力を持つことや、自分のことをちゃんと見てと声をあげる力が必要なのだ。

気をつけていないと境界線が曖昧になる自分にとって、あまり簡単なことではなさそうだ。でもこのスタンスを真に手に入れたとき、やっと「自分らしく生きる」が始められそうな気がしているのだ。





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