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ノマドランド / ミナリ(その2)

昨夜は一昨年のドラ1西純矢君が、初登板で初勝利。㊗️
初回から2回頭くらいまで、変化球がことごとくストライク入らず四球を連発。しょうがないから真っ直ぐでカウントを取りに行く。
が、その真っ直ぐもシュート回転しており軌道が定まらん。これはとても5回まで持つまい、そう思われたのに何とかノーヒットで抑えられたのは、

1、ヤクルト打線が様子見。あるいは凡打してくれたこと
2、キャッチャー梅ちゃんの懸命なリード
3、2回の先頭打者に四球を出したところで、すかさずショートの山本が声を掛けたこと

こんな要因があったから。

矢野監督は彼を〝お勉強〝で先発させた模様。それだけ今の阪神には余裕があるってことだが、0対0、5回を投げ、勝ち投手の可能性あるまま次はアタシの打順ですよってところで降板。
代打原口は凡退するも、次のチカ兄ィが見事先制ホームラン。勝ちの権利がガチに。
この瞬間のベンチでの、純矢君のめっちゃ嬉しそうな笑顔が印象的だったが、ヒーローインタビューのお立ち台は近本と、広島訛りで答える純矢。優しく頼りになる兄貴とそれを慕う弟の構図が、すごく良かった。
純矢氏は16歳のとき、父君を亡くしている。何でも彼の試合の応援に向かう途中で倒れ、急逝とか(享年45)。爾後ご母堂が女手ひとつで純矢君を育ててきたわけだが、お母さまも天国のお父さまも、さぞお喜びのことであろう。
それは初勝利という事に留まらない。その初勝利が梅野や山本、サンズ、そして近本という兄貴たちの一所懸命な手助けによるものだからだ。
ヒーローインタビューのお立ち台がそれを象徴していて、つまり純矢君は新たな家族を得たわけ。ふるさとから遠く離れてプレーする我が子を案じるご両親にとって、こんなにうれしいことはないだろう。

そう、阪神タイガースは家族なのである。もちろんファンも含めて。
亡くなった伊良部投手が、生前こう言っていた。「阪神ファンは世界一だ」と。
周知のとおり彼はロッテで番を張り、そして海を渡った。ヤンキース、エクスポズ、レンジャーズ・・・世界を見てきた。その彼が、こんな言葉を残したのだ。
俺は伊良部の現役時代、彼に付き纏う孤独の影を感じていた。会ったことはないが、彼はすごく真面目でいい奴だと思う。それが口下手だったり誤解されたりで孤独感を拗らせ、社会生活をしくじり、結局あんな最期を迎えた。
※清原も似ている部分はあるが、彼はもっと陽気だし口下手でもない。

俺は昨夜のお立ち台を見ていて、ふっと伊良部のことを思い出した。彼に家族がいたならばと。

そして『ミナリ』は家族の物語である。

※以下殆どネタバレです。

1980年代後半。アーカンソーのど田舎に、韓国人移民の一家がやってくる。夫ジェイコブ(スティーヴン・ユァン)、妻モニカ(ハン・イェリ)、長女アン(ネイル・ケイト・チョー)そして長男デビッド(アラン・キム)。夫婦は30代、お姉ちゃんは9-10歳くらい、弟君は4-5歳といったところ。
一家はジェイコブの「ここで農場を立ち上げ、韓国野菜を作り、成功してみせる」との目標に従いやってきたもの。その農場は前の持ち主も、その前の持ち主も失敗してピストル自殺したという曰く付きだが、ジェイコブは全く意に介さない。誰も成功してないからいいんだよ、だいいち安いし、的に。

元々夫婦はカリフォルニアでヒヨコの鑑定士をして生計を立てていた。いきなり農場経営といっても水を確保し作物を植えるところからだから数年はかかる。ジェイコブとモニカはひとまず、近くの町(とはいっても車で2時間くらいかかる)で鑑定士しつつ整備に取り組む作戦。

共働きであるから、子どもの面倒を見てもらうために2人は韓国から母(モニカの母)スンジャ(ユン・ヨジュン)を呼び寄せる。モニカが「なんだこのボロ家!」と驚いた新居も、スンジャに言わせりゃ「あら、車輪のついてる家なんて素敵じゃない」。

デビッドは祖母スンジャにあまり懐かない。花札を教え料理もできないスンジャがおばあちゃんらしくないと言うのだ。挙句「おばあちゃんって、なんか韓国臭い」(笑)
デビッドはアメリカ生まれで母国を知らないからだが・・・そして騙して自分のオチッコ飲ませたり。

モニカはもともと、ジェイコブの夢にあまり賛成ではない。隣近所もない一軒家、先の見えない農場経営。夫は、そんな妻の孤独と苛立ちを察し「教会に行くか?」と声をかける。
モニカはガチのクリスチャン ー 韓国人にはクリスチャンがめちゃくちゃ多い ー。ジェイコブ自身はそうでないのだが、それでも。
日曜日、一家で延々車に乗って教会へ。キリスト教なぞ信じていないスンジャは、順繰りに回ってきた献金袋からそっと自分らの献金分を取る。案の定、帰宅後ジェイコブとモニカは献金額のことで夫婦喧嘩となる。

デビッドは心臓病を患っておる。母モニカは彼にあんまり運動させないように気遣っているが、ばあちゃんはそんなこと忖度しない。ずんずん歩かせアンと3人、森の奥の小川へ。
樹々を抜けたところにあるその小川は両親から行ってはならないと禁じられているところ。真面目というかお堅いアンはそのことで抗議をするが、スンジャは韓国から持ってきたミナリ(芹)の種を小川べりに植える・・・

ここまでお読みいただくとわかるだろう。おそらくキーマンはスンジャだと。
ところが、そうとも言えるしそうとも言えない。この不徹底さが本作の瑕疵である。

劇作家の平田オリザ曰く、〝観客への情報提供は、内部ー中間部ー外部の差異による〝。
例えば家族というのは内部であり、家族が会話するだけでは親父の職業すら観客にはわからない。なぜというに、家庭の中で父親の職業を明示するような会話は一般的に行わないからだ。
ここに外部(他人)が闖入あるいはアクセスすることで、観客は「おお、この親父の仕事は銀行員だったのか」とわかる。中間部とは親しい隣人や親戚など、身内みなし・でも家族ではない的な。この中間部こそいわばバッファであり内外部の媒体であり、時にキーマンとなる。

スンジャは確かにモニカの母、家族みなしではある。が、
1、母国(外部)からやってきたこと
2、性格的にファンキーであり、沈殿しがちな一家の気質と違う
いわば闖入者であり、中間的存在だ。

教会やヒヨコ屋さん(?)、あるいは取り引き先の面々、つまり外部とのアクセスは直接家族自身で行われる。それは良い。
だが闖入者たるスンジャが引っ掻き回すだけ引っ掻き回し、一家に新たな化学反応を起こすかといえばさにあらず。ここから完全ネタバレとなりますが、氏は脳梗塞か何かで倒れ、一家の苦境を察して病身を押し、何か手助けせむとドラム缶でゴミを焼いたところ、誤って火事を引き起こし、せっかく育てた作物を全部焼いちゃうのだ。

化学反応ってそれか? 
しかも全然ファンキーじゃねえし。むしろ悲劇的だし。

苦境は農場の行く末だけじゃない。金のなかけん妻モニカは再びカリフォルニアに、1人出稼ぎに行きまっしょうかち言い出す。そして農場はもう諦めて、ヒヨコの鑑定士なぞしつつみんな一緒に暮らしましょうよと。
でも夫ジェイコブは肯んじない。あくまで農場やるのだと。
ここでモニカはキレる。「結局あんたは家族より農場の方が大事なのね」と。

こんなものはベタであり、物語の背景にはなっても脇筋にしか過ぎない。取り引き先が見つかって、すぐにたくさん納入してくれと良い話の直後に置いたのは、まあグッドだけれど。

火事で作物全焼は、この後。子どもたちが呆然として夜の道歩くおばあちゃんの手を引く。「家に帰ろうよ」。ここは一見泣かせるポイントだが、時すでに遅しよね、いと面白き人間の化学反応、引っ掻き回す点では。

ラストシーンはあの小川。父ジェイコブと息子デビッドが行ってみたところ、芹(ミナリ)がいっぱい。「これでひとまず食いつなげる」、少し明るい予兆が見えたところで、映画は唐突に終わる。

このエンディングも「ほれ、余韻が残るでっしょうが?」的な監督の意図が見え見えでいやらしい。余韻なんか残るかよ、ただ欲求不満なだけだ。
だって、あと1時間くらい続くと思ったもん。まさかこれで終わるなんて。

このあたり、監督の芝居観人間観が場あたり的。いかにも若い(浅い)よなあ。

ミナリとは、スンジャの謂ではなかったか。そしてスンジャは、こんな形でしか一家の苦境を救えなかったのか。それならなぜ、あんなに明るくファンキーな性格に設定したのか。
また、(もともとはぼろぼろのトラクターを売りにきた)雇人ポール(ウィル・パットン)の動かし方も変だ。彼は仕事上の良きパートナーじゃあるが、それ以上に、教会の帰途十字架を背負って延々歩くような変人だ。彼もいわば中間的存在だが、教会メンバー(外部)と家族との橋渡しもしないし、家族(内部)にも介入しない。作物売れない時にジェイコブを励まし、あるいは家の中にお札を貼るだけ。じゃあ何であんな変人に仕立て上げたのよ。
※ポールはジモピーでもあるから、農場の歴史や経緯を説明できる立場にもある。が、それをするのはデビッドが教会で知り合った男の子の、父親である。

リー・アイザック・チョン監督は芝居の構造・・・というかそれ以前に、他人に興味がないのではないか。俺同様に。
氏は自身の両親の実話を本作に投影したとか。うむ、宜なるかな。だって投影されたのは自分の一家(内部)のことであり、外部(他者)はそこに存在しない。投影されていないもん。

普遍性といったところで、これでは至極限定的だ。

それでも役者が皆うまい。ジェイコブ役のスティーヴン・ユァンはどこかで見たことあるなと思っていたら、『ウォーキング・デッド』の最初の頃に出てきた彼だ。いくぶん年とったけど。
モニカのハン・イェリは抜群。こめかみ婆あ、もとい奥さんというのではなく、つまりキャンキャン不満を言うのではなく、静かに優しく夫への気遣いを見せる。いわば「静の中で動を見せる」。決して美人じゃないけれど、こんな奥さんほしいなあ。
息子デビッド役のアラン・キムは〝平べったい顔〝(笑)で、どちらかと言えば寡黙。これは心臓病を患っていることをも表すが、それでいてボソッとばあちゃんにツッこみ、黙っていたずらをして笑わせる。その可愛いさまに劇場では、何度も笑い声が起きていた。
そしてスンジャ役はユン・ヨジュン。彼女は韓国で杉村春子級の大女優らしく、抑制の効いたはっちゃけ風味と病に倒れた痛々しさ、あるいは呆然と歩くその様との対比・・・デビッドとのやり取りはあたかも掛け合い漫才のようであるが、最初に小川へ連れて行くシーンでは、川の音と彼女の台詞回しが得もいわれぬ抑揚を成し、のちの「希望」に繋がった。

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だから却って本作の「作り」が残念なのだ。冒頭の西純矢問題に戻るが、家族とは、内部だけでの家族じゃない。
外部との交歓アクセスがあって化学反応し、それで家族になっていくのである。

同時に見た『ノマドランド』、主人公には家族がいない。1人荒野を進むのだが、それでも出会う人々と「対話(ダイアローグ)」があった。
いっぽう『ミナリ』は家族の物語。しかし会話(カンバセーション)はあっても、そこに対話は見いだせなかった。
これもまた、アカデミー賞云々なんて作品じゃないわな。
◆予告編

https://youtu.be/LWVwdTUl4Gs

※ノマドランド編はこちら。↓

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979252407&owner_id=988396

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