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格好悪さが人を傷つける

以前、某俳優さんが父親である歌舞伎役者のもとを尋ね、マンツーマンで稽古をつけて貰う番組が報道されていた。

幼い頃、母親と共にその父に捨てられた境遇の子が、必死で生きて来た様を見て涙した。同時に、俳優として確固たる地位を築いたというのに、あえてお父さんが居る世界で認めて貰おうとした姿も健気に思えた。
本来なら天才的な人に共感することは難しいのかも知れないが、おそらくあの映像は、多くのファンと彼との距離を縮めたものとなっていた。

それだけに昨今の報道は色んな意味でショックだった。
単純に「あの人が」と言うのもあったが、無理もないかも知れないという想像もある。

父親は(男は)仕事や自分のために女子供を捨てて良いもの。と、彼は思った。その先に成功を収めたのが自分の最も憧れる偉大な父親だったのだとすると、刷り込まれるわなあ、そりゃ。酒の勢いでそんな一面が出て来たりもするのだろう。あるいは、ちょっと上手く行かない時や、思ったよりも認めて貰えなかった日には、確かめるようにして弱いものを虐めて来たのかも知れない。俺は父親みたいに偉大だよな?そうだよな?と。

色んな意味でと言ったのは、昭和の人間なもので、銀座のクラブでそういうことをする人は追い出されるんじゃないの?今は違うの?ということ。
もしくは、男でも女でも、昔はそれを叱る人が存在していたよな?ということ。

よく「昔は男尊女卑が許されていた。あたりまえだった。」と解釈する人も居るけれど、少し違う。それは男の概念が、まさしく男だった時代だからだ。強くて弱いものを守るというイメージとか粋さとか。それが男だった。
だから、恰好悪いことをすると男でも女でも必ず叱る人がいた。

ところが今は、お金をいっぱい払う人には逆らえない世の中なのだなあと、おそらくは氷山の一角であろうこの一件に思うのだ。

女性に限ったことではないのだが、今も、今回の事件のように髪の毛を鷲掴みにされたり、一生懸命セットしたヘアピンを一本一本無造作に抜き取られるようなことをされている人が居る。スケールの差こそあれ、どこかで誰かがやられている。
家族のためなのか会社のためなのか、それを我慢している人が山ほど居て、今はそれをたしなめる人がいないのだなということ。

あまり男とか女とか言うのも問題になりそうな世の中だけど、自分にも身に覚えがある。同じく同性の友人たちがそういった残酷なことをされているのも目にして来た。

女性の管理職を立てるのは、今のダイバーシティな世の中に対しての建前で、実際には力を認めた上でのことでもなく、ちょっと何か言うと力で抑えつけられる。立てるとしても、扱いやすいタイプの女性を立てて「いつも笑顔でいろ」と強いて来る場面が多々あることだろう。

結果的にそれが干されるのが世の中になったのだとしても、その傷は決して癒えることはないだろう。

とあるインドネシア出身の子が女性の上司に叱られた時「女!」と言い返しているのを観たこともある。
それは間違った価値観で、女というだけで侮蔑したことになるという考えも確かに間違っていた。さらには、その時の彼の顔は醜かった。

女が居なければ生きられなかったはずなのに、女より上でいなければならない。「女のくせに」という概念は、あと何百年くらい消えないものなんだろう。

それはともかく間違った権力の使い方や、お金を払えば何でも許されるという時代ではないからこそ、今回の騒ぎになったということもまた一面の真実。
ただ、愛情を持って叱られるという状況とは全く違う、忌み嫌われる状況となってしまった。

とどのつまり、今も昔も無礼者は無礼者。それ相応の報いがやって来るのだろう。ただそれだけのことだけど、結構ショックだった。

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