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ありがとう

今日も相方は夜勤へ行った。まだ明るい夕方と呼ぶには日が長くなったこの世界へ扉を開けて出て行った。

そうして訪れる一人を夜を私は嫌いではないなと気づく。もちろんずっと一人では寂しいが、バランスを取り戻すのは、生まれてこの方いつも一人の時だったように思う。そういう性質ってあるのだろう、きっと。
関係あるかどうかは分からないが、私はいつも誰かと居ないと気が済まない人たちのことをあまり好きでない。隙間を埋めるために人や人の時間を使わないで欲しいのだ。その癖、自分側からだけ世界を見て本物の愛が手に入らないと喚かないで欲しいのだ。

赤ちゃんの頃からある程度大きくなった頃の子供の記憶だろうか。自分より力が強い大人の手で抱き上げられて嫌がっているシーンがある。眠いのに止めてくれ。遊びたいときに抱えないでくれと幼心に抵抗して可愛げがなかったことだろう。

そのせいか、飼い猫がそういう嫌な思いをするのではないか?と変な気の使い方をする。だから自分からは抱き上げないが、この子は抱っこしろと乗っかって来たり、危険なことに足元に回り込んではバンザーイ!と伸びてお腹を見せる。いいの?とお伺いを立てながら抱っこするという変な大人になった。

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一人の時間が必要だと言いつつも、さて、もしも今の時代にネットがなかったらどうだろうか?私はちょっと寂しく思う。SNSで自分をさらしたりはしていないが、何となくこのnoteで出会う文章を書いている人たちに対して『みんな、どうしているかな?』と思いつつPCを立ち上げる自分に気づく。

昭和の時代、あるいは自分の知っているより昭和よりもっと古い昭和の時代を知る人々のことを勝手に「先輩たちどうしてるかな?」と思うこともある。

先日、採用面接で出会った同年代の男性が「10年ほど前までゼネコンの世界に居ましたが身体を壊して療養しました。その後、介護の世界に興味を持って学び、10年が経ちました。」と話して下さった。そんな些細なシーンでもnoteの世界の方を思い出したり、癌の闘病に励んでいる人の話を聴いてもやはり敬愛しているnoteで出会った方のことを思い出す。

皆色んなことと戦って、色んなことに傷つき、でも、色んなことに喜びを見出し今日を生きている。
そんなことを垣間見れる今を何とも不思議で、何とも幸せに思う。
リアルで触れ合う人にはそう思われないのだけど、どこか糞真面目で何でも学べた、学べなかったで区別するところがある。
学べるものに触れることは私にとっての幸せなのだろう。

静かな夜だ。
白い猫が眠っている。

色々なことがあった時代を通り抜けて来てこの夜に居る事をただただ素直に幸せに思う。

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