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ウルフムーン

いつもニコニコしているお婆ちゃんたちが今日は入浴を断固拒否していた。しかも3人も。

厳しい寒さが続くので皆さん体調だけでなく精神的にも不安定な様子だった。本当に朝晩手足が冷たいのは私たちでも同じこと。晴れていてもどことなく低気圧的な気候が続き、外はびゅーんびゅーん!と吹きすさぶビル風のような音が一日中響いている。

そんな中、人員不足を補うためにナースから一人を風呂場に加勢にやることになっての4週間目。
幾人かのスタッフが根をあげて「もうダメ。できない。両方は無理。」と言う。そりゃそうだ。職種が違うし動きも違う。無理だと思う人は遠慮なく抜けて下さい。本業はナースなのだから。

その代わり私が入浴に突入。大丈夫。残り三人がナース業務をやってくれる。もう新人さんもきっちり出来るようになっているから。

入浴場にはまだ4か月目の新人でありながら主任でもあるKちゃんが居た。

そこに古参の40代男性スタッフが来て、いちいち文句をつけている。この職場しか経験がなくて、この職場で長い人間が一番偉いと思っている。普段は入浴場なんて来ない。下っ端の仕事だと思っているからだ。

たまに来たものだから動きが分からなかったのだろう。突然違うやり方をして新人さんや若い職員に注意されていた。
すると、へそを曲げてふてくされ、どこかの本に書いてあるような演説をぶっこき出した。『君たちは知らないだろうが、かの有名な○○先生はこうおっしゃった・・・etc』とうんちくをこねている間、濡れ髪で待っている婆ちゃんや爺ちゃんがいるので彼の前に回り込みドライヤーをぐわーーっ!とかけ始める。風邪ひいちまうわ。

声がかきけされたこのおっさんは烈火のごとく怒り、ますます周りをあきれさせたのだが「あとで、ミーティングでな。」と言う私。

たちまち静まり返った。

色々とおかしなところがあるのだ、この施設は。

婆ちゃんたちは『だから寒いから嫌なんだよ!』と怒っている人多数。そりゃそうだ。仰る通りだ。とにかく皆怒っている。Kちゃんも若い介護職員も怒っている。

そして昼のミーティングでも色々とおかしなことを言いだし、感染対策のために一人の人間が誘導から洗体、着脱、ドライヤーまでやるという規則はどうなった?とまで言う。
そんなことはとっくの昔にやっていない。何十人もの人々をそんな方法で入れていたら、コロナ云々の前に普通に風邪ひいて肺炎になってしまう。しかも彼ののろさでは。

彼はただ自分が新しい人間に注意されたことだけに腹を立て、その報復のために婆ちゃんたちを濡れ髪で放っておこうとした。

初めてこの施設でブチ切れた瞬間だった。いい加減にして。

当初はKちゃんいじめのために言い出したことだったのだけど、私を初め複数の人々を怒らせて墓穴を掘っていた。

果ては、彼がよくやる意地悪についての話に流れた。新人で小柄な女性が夜勤の日に、巨漢の彼は利用者様を片っ端から起こし、車椅子に座らせ、寝かせないで帰るというのだ。
普段起きない利用者様まで起こされて利用者本人も疲れるし、何十人もの人たちをベッドに寝かせる新人さんは、夜勤の始まりの時間に既にへとへとになるという。

なんだ!それは!利用者さんを使って新人いじめするってなんだ?!とブチ切れて問い詰めずにいられない話だった。

とは言うものの、施設長はブチ切れる人が好きでない。私はこれまで冷静さをかわれていたのだと思う。なのでだいなしなのだが、今日ばかりは頭に来て仕方がなかった。

で、帰り道。

燦然と夜空に輝く白い月。

あ~、満月か。今夜の月をウルフムーンというらしい。

いつも温厚な婆ちゃんたちも、古株のおっさんもKちゃんも私も、皆満ち満ちて怒っていたわけだ。それだけでは許されないけどね。

ただ確かなこととしては、彼は自分の名誉のためだけに怒っていたということ。そこが皆とは違うところ。何の仕事してんだよ。

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