刹那と永遠

毎年、冬が来ると正月の支度を始める。毎年十二ヶ月を切りにして、年を重ねるのは日本に置いて太古の時代からの習わしであった。年を重ねるほど、「時間の感覚」は短説になっていくと大人たちは口々に呟くが、「お正月」は一年に一度しかないことで、氏神のお祭りのように期待のひと時である。十にも満たない年の頃、冬が到来すると「あと何回寝れば、お正月が来るの」と祖母にたずねて、カレンダーに印を付けて一晩二晩と勘定したものである。そして、いよいよ新年を迎えると、「あけましておめでとうございます」とやけに形式ばった礼節が幼心にはきまりが悪く、ばつに悪そうに振舞って、叱られたことが昨日のように回顧せられる。小さな子どもの生活に、そのようなことがあるのは悪くないことではないかと今では感じる。

ところで「新年」や「正月」など、そんなことを言って何になるのか、「来るものはくる」「過ぎ去るものは過ぎ去る」と、この悠久の宇宙の間でそのような時節に一喜一憂することに如何なる意味があろうか、と述べる人がいる。これは「一方に偏った」観点ではありますまいか。「全体を俯瞰している」ようでしていない。つまり、「悠久たる宇宙の間」ならば、「お正月がいつくるかと待ちわびる間」というのも、その「悠久なる時」に収めてよいのではないかと私は感じる。「ひと時」は「永遠」の一部であり、「永遠」は「ひと時」の集まりである。されば、一種の「刹那主義」も「また可ならずや」である。

このように「刹那」と「悠久なる時」つまり、「一部」と「全体」の対立はいろいろな形態をとりながら、人類の有史の上で今日までその論争が絶えることはなかった。自由主義的な個人主義か、保守主義的な全体主義か、という命題は、現代に至ってもその争いの種が尽きることはない。いつかはこの論争に終止符が打たれるときは来るのであろうか。

その答えを探し求める思索の最中「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という平家物語の一説がふっと心に浮かんだ。なるほど、私は「時が解決に導いてくれる」と感じた。「人間の文化」といっても、ホモ・サピエンスが出現してからせいぜい五、六万年に過ぎない。この先何十万年も何百万年もあるとすれば、気長にこの争いの種を見ていてよいではないか。その頃に人類が存在するか疑問ではあるが。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?