経験と創作

宮崎駿監督の「もののけ姫」には日本的な民俗学や、歴史学をモチーフとした解題が様々な場面に暗喩として散りばめられている。主人公のアシタカは、村を襲来したタタリ神を打倒するが故に、戦闘の最中に腕に呪いの傷を負ってしまう。村を守ったアシタカは、「その傷はそなたを蝕み、やがて骨まで達して死に至らしめるだろう」と村長のヒイ様をして「最期の時」を告げられる。その呪いを解かんとするべく、アシタカは「西の国」へと旅立つ。

それが、「もののけ姫」の大まかなあらすじである。本作を鑑賞すると散見できるのだが、アシタカの村には東洋的な土着信仰(アミニズム)の文化が根付いている事実が確認できる。この「アニミズム」はもののけ姫の根底をなす宗教観である。それを裏付けるかのように、作中には「コダマ」など、「木の精霊」つまり、汎神論的価値観を象徴するキャラクターが登場する。

アニメーションは未だ「娯楽」としての要素が強い。そこに、「アニミズム」など難解な解題を織り込んだ宮崎駿の発想力には感嘆させられるのは勿論のこと、もののけ姫には他にも「対立の構造」など、様々な社会的なメッセージ性が含まれている。つまり、作品の完成度は「如何なる題材をモチーフにしたか」で決定されるのではないか。宮崎駿に限らず、黒澤明や北野武などの大監督は「引用する材料」の観察眼が群を抜いて高い。北野武は映画の完成度を高める材料として、「因数分解」を挙げている。

例えば、Xという殺し屋がいたと仮定する。そいつがA・B・C・Dを順に殺すシーンを撮りたい。その場面を撮るには、XがAのいる所へ行ってバーンとやる。それから次は、Bをダーンとやる。それからC・Dを殺すシーンを順に撮る訳だけど、それを数式に変換するとこうなる。
XA+XB+XC+XD
これだと間延びする印象を受けて面白くない。なので、
X(A+B+C+D)と因数分解する。こうすると、無駄が省けて洗練された映画になる。この括弧を如何なる大きさで閉じるかが、腕の見せ所だ。      北野武「間抜けの構造」より引用

と数学の定理を引用して、映画の創作論を語っている。つまり、創造力とは「我々が持つ経験的事実の可能性」に由来するのではないか。ヴィトゲンシュタインは「論理哲学論考」でその旨を述べた。例えると、SF映画でよく見られる設定として、人間の持つ記憶を全て消去されたと仮定する。その人間が最初に目に映ったものは、「駆ける馬」と「飛ぶ鳥」だった。その人間は「駆ける馬」と「飛ぶ鳥」という経験的事実を組み合わせて、「ペガサス」という幻想の動物を想像する。「駆ける馬」と「飛ぶ鳥」を視覚さえしなかったならば、「ペガサス」を想像するなど不可能である。ペガサスに限らずに、「見たことも聞いたこともないもの」を想像はできない。つまり、想像力(創造力)の豊富さは、我々の経験的事実が潤沢なほど、深みを増す。「もののけ姫」や他のジブリ作品然り、宮崎駿の教養や知識が纏まったエキスとして映画に抽出されるのだから、「ジブリ作品を越えた映画を作りたい」ならば、ジブリ作品だけを鑑賞していてはならない。インターネット上には、「この作品はあのパクリ」「あの作品はこのパクリ」のように作品のモチーフをあげつらうの愉しむかのようなサイトが存在する。しかし、前述した通り、「見たことも聞いたこともないもの」を想像はできない。同様の意味を持つ言葉でさえ、前後の文脈や並び替えによって意味が変わってくる。故に、経験的事実を如何に組み合わせて、「独創的」な作品を創造するかが、腕の見せ所なのである。








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