見出し画像

聖書のお話(シリーズ"平和"#2)「平和を実現する人々」2022年夏

はじめに

2022年夏のシリーズ"平和"
第二回は、平和を実現する「人々」
私たちの間にある「歴史」の話です。

音声はこちらから

https://www.fujibapchurch.com/app/download/12450141357/2022.8.14.mp3?t=1661878480

聖書本文 マタイによる福音書5章9節

 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

『聖書』(新共同訳)より

お話

 「平和を実現する人々は、幸いである」「平和の主」と呼ばれるイエス・キリストが、弟子たちに、また人々に語られた言葉です。「平和を実現する」とはどういうことでしょうか。今日は、哲学的な話になってしまいそうです。
 そもそも「平和」とはなんでしょうか。似た言葉が色々あります。「平安」「安心」など……以前に「平和ってどんなこと?」という絵本をご紹介したことがありましたが、そこには「安心して眠ることができること」という言葉がありました。「安心して眠ること、安心して生きていること、安心して存在していることができること」そんな状態、状況を「平和」という。逆に「平和ではない」とはどういうことでしょうか。「安心して眠ること、安心して生きること、安心して存在していることができないこと、何かによって不安にさせられていること、安心していられないこと、脅かされていること」簡単に言えばそういうことが「平和ではない」ということです。「平和」それは、私だけの問題ではなく、この世界に存在する私以外の誰か、何か「他者」の存在と繋がっています。安心していられるために、他者に脅かされない、他者が私を傷つけないという安心が必要です。私もまた誰かにとっては傷つける存在、その人の安心を脅かす可能性のある存在である。脅かされないために、互いによい関係を結んだり、あるいは互いと必要な距離を取ったり、場合によっては互いを寄せ付けない強固な壁を作ったり……どんな方法を取るにしても、私たちは自分以外の誰か、何か「他者」の存在と共にこの世界に存在している以上、その他者を意識しながら生きている。生きざるを得ない。「平和」という言葉と同じ文脈で、「和解」という言葉が使われるのはそのためです。「平和」というのは、私だけの問題ではなく、この世界に存在する私以外の誰か、何か「他者」の存在と繋がっている。そして、その他者と私との間に「歴史」があります。私たちはそれぞれ、一人ひとりが異なる存在で、今日まで生きてきたなかで考えてきたこと、感じてきたこと、通ってきた道のりもみな違います。同じような道を通ってきたとしても、それをどのように感じていたかには違いがある。そのようにして、私たち一人ひとりのなかには、それぞれ固有の「記憶」や「経験」があり、それがまた、私という唯一無二の存在、人格を形作っています。そんな私たちが出会い、関わるとき、そこには私ひとりの「記憶」や「経験」ではない「歴史」というものが生まれます。それは私と、私以外の誰か「他者」との間に生まれるもの……私と他者が共有する「記憶」や「経験」と言ってもよいかもしれません。「物語」という言葉で表すこともできるかもしれません。それは私だけのものではない。「平和」と同じで、私と他者、私とあなたとの間にあるもの。だから、自分勝手に私の思い通りにはできないし、してはいけないでしょう。
 今日の聖書の言葉に「平和を実現する人々」とありました。人はひとりで「平和」を実現するのではない。「平和」は、私と繋がる誰か「他者」と共にでなければ実現できないものである。私はこの世界に、他者と共に存在し、他者と共に生きているから。他者によって生み出され、他者によって生かされてきたから。私が望む望まないに関わらず。私たちは、この世界に存在しているということ、そのことだけで、私以外の誰か「他者」に依存している、他者の存在と関係なく存在することはできないのだと思わされます。私がこの世界に、自分と異なる他者と共に存在していること……このことは、私にとって幸いでしょうか。それとも、呪いのように感じられるでしょうか。私以外の他者は、私を安心して生きられるようにしてくれることもあれば、私の安心を脅かし、私を傷つけることもある。私もまた、誰かを安心させることもあれば、傷つけたり、不安にさせたりすることもある。「平和」は本当に、私と他者との関係性によるものなのだと思わされます。

 先程、私自身に固有の「記憶」と「経験」という話をしました。私が仮に、この世界にひとりで生きていると考えたとして、私は安心して生きていることができるでしょうか。私は、私自身によって脅かされること、不安にさせられることがあります。それは、過去の記憶や経験です。私たちは決して完璧な存在ではありません。失敗もするし、それゆえに後悔もします。そのなかで、そんな私の「経験」が、後悔の「記憶」が、私自身を否定し、いまや将来への不安が生み出し、安心して生きることができなくさせることがあります。過去の自分、それもまた今の自分とは異なる存在「他者」ということができるのかもしれません。過去の自分と「和解」する、というような言葉が使われることがあるのは、まさしくそのようなことを表しているのかもしれません。過去の自分が、「記憶」や「経験」が、いまや将来の私の「安心」を脅かすことがある。そのようなとき私は、私自身の過去を「記憶」を「経験」を、その上に成り立っている私という存在を、私とは異なる視点から眺めてくれる「他者」を必要とするかもしれません。私自身が私を否定したくなるとき、それを肯定してくれる存在が必要なのではないでしょうか。

 先程、私たちの間に紡がれる「歴史」という話をしました。「歴史」……私たちが共有する過去の記憶……私たち人類の歴史、世界の歴史で言えば、戦争の歴史というものがあります。私たちが今いる日本という国にも、戦争の歴史があります。日本という地に生きていた沢山の人の命、一つひとつの大切な命が奪われた戦争……また、沢山の人の命を、自分たちが奪った戦争……アジアの国々の人々の命を、国を、生活を、家族を、文化を、安心して生きることを、一人ひとりのかけがえのない存在から、一瞬にして奪い去った戦争……そのような「記憶」が、日本という国にはあります。
 そのような、暗い「歴史」を振り返り続けるのはやめよう、自虐的な「歴史」を見つめ続けるのはやめよう。そうではなく、日本という国の素晴らしい「歴史」や文化を思いだそう。そうして前を向いて、日本人としての誇りをもって、未来に進んでいこう。そのようなことが語られます。自虐的な「歴史」に負けてはならない、と……。しかし思うんです。そのように語る人たちが見つめているのは、世界や、アジアの人々との間にある「歴史」、共有する「歴史」ではなく、その人たち自身がもつ、戦争の「記憶」や「経験」なのではないかと。その「記憶」「経験」から感じている「後悔」なのだろうと。誰かに責められているわけではない。自分自身で過去に責められているように感じている。その「後悔」に、自分自身が押し潰されそうになっているのではないかと。自分たちの過去が「記憶」が「経験」が、いまを安心して生きることを、また将来に向かって安心して生きていくことを脅かしているのではないか。
 「平和」や「安心」は、私ひとりの問題ではない。私ひとりで「実現」できるものではない。私という存在は、他者に依存している。他者との関係性のなかにあって、私は不安にもさせられるけれども、でも「安心」「平和」もまたそこにしかない。そこにしかあり得ない。「安心」して生きるために、「平和」「平安」であるために、私はいつも、私以外の誰かを必要としている。

 イエス・キリストは言われました。「神の国は近づいた」と。神という存在は私たちにとって、絶対的な他者という存在です。私たちを救いもすれば、滅ぼしもする……私たちが抗うことができない、そのような力をもった、絶対的な他者。その神という存在が、私に近づいてくると。その神の姿を表したのが、イエス・キリストという存在であったと聖書は語っています。神の子と呼ばれたイエスが、ユダヤの人々の間に現れたこと。そしてその地に生きる一人ひとりの存在に、出会ってくださったこと。社会のなかで小さく弱くさせられていた人々に心を留めて「平和があるように」と声をかけてくださり、共に時間を過ごし、共に食事をし、共にその社会の理不尽な暴力を受けながら、共に抗い、共に生きるということをしてくださったこと。そのことを通して、人間と共に生きる神、人間と共に「歴史」を紡ぐ神という存在の姿を、身をもって表してくださったんですね。最後には人々の妬みによって十字架にかけられて殺されてしまったイエス……それでもなお、人々を、また自分を裏切った弟子たちを赦し、「ともにいる」と約束してくださったイエス。そんなイエスが今日語っている「平和を実現する人々は幸いである」という言葉……それは、互いに傷つけあうという過ちを繰り返し、時に後悔によって自らをも傷つけてしまうそんな人間に対して、それでも諦めず、見捨てずに、共に新しい「歴史」を紡いでいこうと呼び掛ける、神という他者からの希望の言葉であると思います。
 私たちの間に紡がれる「平和」「和解」……それは「赦し」ということと結びついたことがらです。過去の失敗、過ちが赦され、関係性が修復されていくこと。過ちを認め、謝罪する側がいるだけではなく、その謝罪を受け入れる側がいて、関係性は繋ぎ直されていく。それぞれのなかにある過去の「記憶」や「経験」が、共有の「歴史」「物語」として新たに紡がれ始めていく。それは、ひとりですること、ひとりでできることではない。一緒にすること。だからこそ、すぐにはできないことも、うまくいかないこともある。謝罪する人がいて、それを受け入れる人がいて。やり直そうとする人がいて、そのやり直しを認めてくれる人がいて。助けようとする人がいて、助けられようとする人がいて。救い主がいて、その救い主を受け入れる人がいて。そうしてはじめて、「平和」は実現していくんです。
 世界の闇のなか、人間の間にある差別や暴力という闇のなかに、人々と共に身をおかれ、そこに生き、ご自身が十字架にはりつけにされてもなお、赦しを語られたイエス。そのイエスが語った「平和」への呼び掛け……神という他者から私への「平和」への呼び掛け……それこそが今日、私たちに与えられている「幸い」です。あなたは大丈夫。あなたがどのような過去をもっていても、あなたがどれだけ他者を傷つけ、否定してきた過去をもっていたとしても、あなたがどんなに他者から否定され、傷つけられたとしても、それでも、あなたと一緒に生きたい。あなたと一緒に「平和」を、ここからまた新しい「歴史」「物語」を紡いでいきたい。神が私に向けて、私たちに向けて、世界に向けてそのように語りかける言葉を、共に受け取っていきたいと思います。

 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

『聖書』(新共同訳)より


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?