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男性の女装とミソジニー(女性蔑視)

はじめに

 男性が女性の格好をする「女装」について、皆さんはどのように考えますか?その歴史は古く、日本におけるその実際については、先日特別展示も企画されましたので、足を運んだ方もおられたかもしれません。

※その際にもそこに、本記事で考察する男性のミソジニー(女性蔑視)があることを感じ、そのことを記事に書きました。順番的には本記事をお読みになったあとでお読みいただいたほうが、よく理解していただけるかもしれません。

 女装は、現代においては、ファッションとして楽しまれることもあれば、舞台などでの演出や、性的嗜好の一環として行われることもあり、社会で広く受け入れられた文化のように思われます。
 しかし、私は、男性の女装にはミソジニー(女性蔑視)が存在すると考えています。今回の記事では、男性の女装に潜むミソジニーについてあらためて考察し、その背後にある問題を浮き彫りにしていきたいと思います。

◆ただの服装ではない「女装」

 まずは、「女装」がどのような行為であり、その背後にミソジニーが存在するとされる理由を考えていきましょう。女装とは、「女」を「装う」ことであり、男性が女性の服を着て、化粧や髪型などを変えることで、女性に似せる行為のことです。しかし、ここで重要なのは、男性がただ単にスカートやワンピースなどの女物の服を着ることと、「女装」をすることは、本質的に異なるという点です。女装は、男性が「女を装う」ことで、女性を「女」として記号化・モノ化・他者化する行為であり、それは紛れもなくミソジニーの表れであるということです。

※「女装男性」の実態については、別の記事で詳しく取り上げるとともに「トランス女性」とその境界線が曖昧であることについても考察しました。

 単にその服装をすることと「装う」こととの違いは、性別を逆にして考えてみることによって感じられるかもしれません。女性が単にズボンなどの服を着るというのではなく、「男装」をすることによって「男を装う」としたらどうでしょう。おそらく男性たちの中には、「女が男になろうとするなんて生意気だ」という風に言って怒り出す人がいるかもしれません。
 また、黒人差別の例で考えるならば、この違いはさらに明確になるでしょう。舞台などにおいて白人が(正確には白人に限らないが)顔を黒く塗って黒人を「装う」“ブラックフェイス”といわれる行為がありますが、これは黒人の人々に対して非常に侮辱的な行為であるとされています。

 このように、「装う」という行為は単にその服装をする、格好をするということだけでない意味合いを含む行為なのです。

◆女性の記号化・モノ化・他者化とミソジニー

 ミソジニーとは、女性に対する憎悪や蔑視を意味し、女性差別の根底にある考え方を指します。男性が女装することで、女性を単なる「女」として扱い、その存在を矮小化することは、紛れもないミソジニーです。

 女装は、男性が「女を装う」ことで、女性を「女」として記号化・モノ化・他者化する行為であると先に説明しました。これらの言葉は、女装がミソジニーにつながることを理解する上で非常に重要な言葉です。
 まず、女性が「女」として記号化されるとは、女性が一定のイメージやステレオタイプに当てはめられ、そのイメージやステレオタイプに従って扱われることを指します。例えば、女性が常に可愛らしく、柔らかい印象を持つことが期待されるといった状況です。
 次に、モノ化とは、女性が単なる対象や物として扱われ、その感情や人間性、人格が無視されることを意味します。女装をする男性が女性の容姿やファッションを真似るだけで、女性としての本質や内面については考慮せず、単に見た目の要素に焦点を当てることなどがモノ化の一例です。
 最後に、他者化とは、女性が異質な存在として扱われ、自分たちとは異なるものとして捉えられることです。男性が女装をすることで、女性が「男性とは違う特別な存在」であることが強調され、その違いが際立つようになります。
 このように、女装は女性を記号化・モノ化・他者化し、女性差別やミソジニーの温床となることがあるのです。

※女性の記号化・モノ化・他者化の具体例に関しては、過去の記事も参考になるかもしれません。

◆女装男性の欺瞞

 ところが、女装男性や自らを「女装師」と名乗る男性たちの中には、まるで自分が女性の味方であるかのように振る舞っている人たちがいます。彼らは自らに女装の「厳しいルール」を課し、それを守っているということを理由に、自分たちを女性を差別せず尊重し「正しい女装」をしている者たちであると自認しています。
 実際の「厳しいルール」には、例えば「社会に迷惑をかけない」「女性ホルモンは摂らない」「性別違和を感じたら退く」「女性スペースに立ち入るのは重罪」といったルールがあるそうです。しかし、このようなルールを設けることは、実際には女性の尊重ではなく、自分たちが社会的な批判を受けることなく女装を続けることができるための「アリバイ」あるいは「保険」のようなものであると言えるのではないでしょうか。なぜなら、いくら彼らが自分たちの女装に「厳しいルール」を課していても、女装そのものが女性を「女」として記号化・モノ化・他者化する行為である以上、それが女性に対する差別であり、女性を尊重するものではないという事実は変わらないからです。

◆フェティシズムとしての女装

 男性の女装に関連した性癖として、男性が、女装した自分を見て性的に興奮する「オートガイネフィリア」という性的錯誤が存在します。この現象は、男性が女性に対する欲望の対象を置き換える記号的な操作、一種のフェティシズムであると言われます。
 フェティシズムについて、上野千鶴子氏は著書『女ぎらい』(朝日文庫, 2018)の中で、次のように述べています。

 フェティシズムとは換喩的な関係によって、欲望の対象が置き換えられる記号的な操作のことを言う。男の欲望は断片(パーツ)化された女の記号にたやすく反応してしまえるほど、自動機械のようなフェティシズムを身体化しているように見える。……フェティシズムとは、動物的なものではなく、高度に文化的なものだ。

上野千鶴子『女ぎらい』(朝日文庫, 2018) p.13

 上野氏の視点に立つならば、「オートガイネフィリア」といわれる性的倒錯に限らず、女装全般が女性を記号化・モノ化するという意味で、フェティシズムと密接に関係していると言えるでしょう。フェティシズムとは、ある特定の対象やその部分に強い興味を持ち、性的な欲望を抱く現象です。この考え方を女装に当てはめるならば、女装を行う男性は、女性の身体や女性的なアイテムに対して異常な興味を持ち、それらを自分に取り込むことで性的な欲望を満たそうとしていると言えるでしょう。
 男性の女装を肯定する立場の人の中には、「オートガイネフィリア」と「正しく無害な女装」とが、その男性の「自己顕示欲」によって見分けることが可能であると主張する人もいます。しかし、この主張には大いに疑問を感じます。
 まず、「性的な興奮」や「自己顕示欲」は、当人の内心のことであり、客観的には判別が不可能です。また、それらが無かったとしても、女性を「女」として記号化・モノ化・他者化している女装自体がミソジニーを背景とした女性差別であるため、「正しく無害な女装」などというものは、そもそも存在しないのだと考えるべきです。

◆男性の女装という社会問題

 男性の女装は、女性や女性を含む社会にどのような影響を与えるのでしょうか。まず、ここまで述べてきた通り、女装を行う男性によって女性が「女」として記号化・モノ化・他者化されることは、女性の人格や個性が無視されることであり、女性に対する男性のミソジニーの表れです。
 また、女装が、男性の自己顕示欲や性的な興奮を満たす手段、フェティシズムであるということは、女性が男性の欲求の対象にされているということを意味します。それは即ち、男性が女性を性的に消費しているということであり、女性に対する侮辱的な行為です。
 たとえば、男性のお笑い芸人が女装をし、女性の立ち振舞いを笑いのネタにすることなどはよい(実際は社会に非常に悪い影響をもたらしている)例です。
 そのような女装が、社会において公に為された場合、それを目にした人々の内には、女性がそのような扱いをされているという事実が、無意識の内に内面化されていくでしょう。ですから女装は、それが公に為されるとき、決して男性個人の嗜好や性癖の範囲に留まらず、社会における女性への差別や偏見を助長し、彼女たちが様々な形で不利益を被ることにつながっていくのです。

◆女装は多様性を装った女性への抑圧

 私たちが目指すべきは、すべての人が性別に関係なく、自分らしく生きることができる社会、ジェンダーという社会的な性規範やステレオタイプから解放されて生きることができる社会です。服装についても、性別によってそのあり方が規定されるということは、本来あってはならないことでしょう。
 そのような文脈のなかで、男性が自分の好きな格好をすること、女装をすることの自由が主張されることがあります。しかし、ここまで述べてきた通り、女装には、女性を記号化・モノ化・他者化するミソジニーが潜んでいます。女性差別を解消し、真に平等な社会を実現するためは、この女装の問題点についてきちんと考え、具体的に問題提起を行うことが必要です。にもかかわらず、男性の女装は単なるファッションの一種と見なされ、特に「性の多様性」の文脈のなかでは、これまでの常識にとらわれない、自由で新しい性表現の可能性のようにして、もてはやされることさえあります。男性を中心とした表現者たちによる“ドラァグクイーン”という女性的性表現は、その卑近な例でしょう。実際には、そこではミソジニーや女性差別が、華やかな文化を装いつつ隠蔽されているのです。

※中心的なテーマは異なりますが、過去の記事のなかでも、ドラァグクイーンをはじめとする男性の性表現によって、女性の権利が奪われているのではないかということに触れました。

 性表現における男性の自由奔放が許される一方で、女性に対しては自由な格好をすることが許されないという、不均衡な現状があることを忘れてはいけません。男性においては多様性が許され、自由が主張されていく一方で、女性に対しては、美しくあること、女性的な服装をすることが押しつけられ続けている……このような現状もまた、女性差別が厳然として存在しているという証拠であると言えるでしょう。

※女性に「美」が押しつけられ続けるというミソジニーの実際については、以下の書籍で詳しく考察されています。関心のある方は、是非お手に取ってお読みください。

おわりに

 いかがだったでしょうか。今回の記事では、一見何の問題もないように見える、むしろ性の多様性による新しいファッションの可能性とも捉えられることのある、男性の女装について考えました。そこには、決して看過することのできない女性差別やミソジニーがあるということが見えてきました。さらに、女装をする男性たちのなかには、自分たちのミソジニーを隠蔽したまま(もしくはそれに気づかないまま)、女性たちの味方のように振る舞っている人たちもいます。さらには、男性たちが自分たちの奔放な性表現について、あたかも性の多様性や文化であるかのように主張することによって、自らのミソジニーやそこにある女性差別を隠蔽しているという現実があります。
 そんな男性たちの女装について、女性たちが、自分たち女性に対する差別的・侮辱的行為であると指摘することは、非常に難しいことでしょう。なぜならば、女性の格好を共有することによって、あたかも自分たちの味方のように振る舞っていた男性たちが、そのミソジニーを指摘することによって敵となり、より一層ミソジニーをむき出しにして、自分たちを攻撃してくるようになるかもしれないからです。
 ですから、男性の女装については、同じ男性たちが、そこにあるミソジニーや問題性を指摘することが必要でしょう。これまでの記事や、メンズリブの集まりのなかでも繰り返し話してきたことですが、男性の問題については、男性が声をあげ、取り組む必要があるのです。今回私がこの記事を書いた理由も、男性としてこのことについて声をあげなければならないと思ったからなのです。
 性の多様性が主張される昨今、ずっと置き去りにされたままの女性の権利が、ますます蔑ろにされているということを目にします。多くの女性たちが、自分たちの生存の権利のために声をあげているにもかかわらず、その声に耳を傾けようともせず、むしろますます自分たちの勝手な主張を掲げ、女性の安心・安全を脅かしているのは、他でもない男性たちです。性的マイノリティと言われる人たちのなかでも、特にゲイやトランス女性と言われる、女性に対して男性のポジショナリティを有する人たちが、自分たちの奔放な自由を主張することによって、女性たちの権利を侵害しようとしています。男性たちは、女性の尊厳を傷つけ続けているミソジニーや女性差別について、それが自らの内外に厳然と存在していることをきちんと見つめ、それを互いに指摘し合うことが必要です。
 女性の権利が守られる社会こそ、真に平等で自由が認められる社会です。そのような社会の実現に向かっていくための具体的なアクションが、私たち一人ひとりに求められているのです。


 今回の記事は以上になります。最後までお読みいただきありがとうございました。これからも皆さんと共に、女性差別の無い、真に平等な社会を目指していくことができればと願っています。


男性が男性として、男性同士で考えるメンズリブの会を続けています。
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