ルワンダの虐殺記念館に行ってきました
こんにちは、アフリカと子どもが大好きな19歳のハセガワトアです。
前回は、KISEKIのプログラムで学んだことをお話ししました。
今回は、前回も少し触れたルワンダ内戦についてお話しします。
その前に、インフルエンサーになりたいという夢を持つルワンダ人の友達ノエラとYouTube始めました!
彼女の夢を叶えるため、ご視聴、チャンネル登録を宜しくお願い致します。
ルワンダ内戦とは
まず初めに断らなければならないのが、ルワンダ内戦と呼ばれているこれから話す出来事は、決してルワンダだけで起こった仲間内の戦争ではないということです。
他国が大きくかかわって、何ならきっかけを作って起こった出来事だったのです。
前回お話ししたように、ルワンダは初め、ドイツによって植民地化されました。
このときドイツが用いたのは、ツチ族の王を通した間接統治という支配方法でした。
そして、民族をはっきりと分けるようになったそうです。
その後、ドイツに代わってルワンダを支配することになったベルギーは、さらに民族をはっきりと分けるためにIDカードを発行しました。
これで、国民全員がツチ族、フツ族、トゥワ族の三つにはっきりと分断されました。
ここで前回お話ししたように、ドイツによって教育がもたらされたことで、一つの問題が発生しました。
教育を受けたことで、フツ族の人々が、ツチ族だけに権力が集まっていることを疑問視し始めたのです。
そして、1959年にルワンダの王政が廃止されたとき、フツ族が政権を握り、これまでの疑問や怒りが爆発し、ツチ族への迫害が始まりました。
多くのツチ族の人々はその後隣国に避難しました。
しかし、ルワンダ国内では迫害が続き、それを食い止めるために亡命中のツチ族が隣国で結成したのがのちのRPFです。
1990年、RPFはついにルワンダで武装闘争を開始しました。
そして1994年、RPF率いるツチ族と、穏健派のフツ族が計100万人以上も殺されたジェノサイドが起こりました。
RPFは1994年,、当時の独裁政権打倒によりこれを終結させ、新しい政権を樹立させました。
ざっと説明するとルワンダ内戦の流れはこのような感じでした。
きっかけを知るとただの内戦ではないことが分かると思います。
大きな要因となったのは民族をはっきりと分断したこと。
これがなければどの民族でも同じルワンダ人として仲良く暮らしていけていたはずです。
民族間対立という構造はなぜできたのでしょうか。
これがルワンダ内戦をただの内戦として認識してはいけないと言う理由です。
ジェノサイドはあらかじめ計画されており、その計画を世界は知りながらも止めなかった、干渉しなかった、あるいは加担していた、そうキガリの虐殺記念館に書いてありました。
世界が動いていたら、これほどの死者はでなかったはずです。
虐殺記念館を訪れて
私は、キガリにある虐殺記念館、ムランビにある虐殺記念館の二つを訪れました。
キガリの記念館には、ルワンダでのジェノサイド以外にも、世界でのジェノサイドの展示があります。
それらの中にはジェノサイドという定義としては認定されていなくても、残酷な死がたくさん紹介されていました。
ムランビにはたくさんのご遺体が安置されています。
両方の記念館を訪れ、人間って怖い、そう思いました。
何か民族間などで対立が起きたとき、相手を根絶させれば問題は解決する、そのような考え方が様々なジェノサイドのはじまりにあったと展示に書いてありました。
こんな考え、今は全く思い浮かびません。
こんなことを考えることは異常だとさえ思います。
しかし、人が群れたとき、この正常な感覚が残り続けるという保証はありません。
それが人間なんだ、何かの拍子でこのような考えに至る可能性があり、それを行動に移す知能、技術もある、人間はそのことを自覚しなければならない、そう強く思いました。
ただ人間って怖いと思うだけでなく、そう自覚し、自制し続けることが人間の使命だと思います。
そのことを忘れないために、このnoteに残しておきました。
私は真剣に世界平和はいつか実現すると思っています。
逆にそう真剣に信じなければ、本当に世界平和は一生実現しないとすら思っています。
世界から争いがなくなりますように。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回の投稿も読んでいただけたら嬉しいです。
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