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世界はときどき、まぶしすぎるから(定期マガジンでたいせつにしていること)

さてさて定期購読マガジンなるものを始めてみたのはよいけれど、いったんクローズドな場をメインにすると、そのあと知り合った方々に、「こやつはいったいここで、どんなものを書いているのじゃ……?」というのがきわめて伝わりづらく、圧倒的不親切だと気づいた(いまさら)。

著名な方が運営するのならば、それでもさして問題なかろうが、無論わたしはそうではない。どうやらぽこねんなんていう、どこの馬の骨ともわからない、あやしいやつがコソコソと、更新しているのだからなおさらだ。超圧倒的不親切。ちょっとくらいは説明が必要かと思いなおした。

これを読むとおそらく、99.7%くらいの方はただ「まったく購読する意義を見いだせない」という思いを新たにし、残りの0.3%くらいの奇特な方が、もしかすると「あ、それならちょっと購読してみたいかも……」と思うかもしれない(思わないかもしれない)。だから意義なんて希薄だけれど、自分のあたまの整理がしたくて書いてみる。

ちなみに、わたしが定期マガジンをはじめた背景はこちらのnoteを。

今回は、そうしてはじめたマガジンで、どんなことを意識し、どんな空気感の作品を収録していこうとして(試行錯誤をくりかえしてうんうん唸って)いるのか、を書いてみたいと思います。

定期マガジン『とるにたらない話をしよう』を運営するにあたって、わたしがもっとも意識しているテーマは「気持ちのチューニング」というもの。

そもそも筆者自身が、自分に自信なんて微塵も持ち合わせていないものだから、「誰かの気持ちをチューニングしてやろう!」とか、そんな大それたところが発端ではもちろんない。発端は、なんとかして「自分の気持ちをチューニングしたい」という、これまた極めて自己中心的なところにある。

マガジンを始めた背景のnoteにも書いたけれど、そもそも定期マガジンにたどりつくまでの私のメンタルはだいぶかすかすで、ぼろ雑巾状態だったのだ。他でもない、自分の気持ちのトーンがブレにぶれ、キーンキーンと不協和音を奏でていた。

そんな中、少しでも気持ちを平常運行状態にもどしてゆきたいな、と思って手にとったのは、学生時代から好きだった作家やエッセイストの本だった。

わたしにとって彼らの作品は、「ここならば大丈夫」という、心の拠りどころのような存在だった。このページ上にある物語ならば、わたしは攻撃されない。傷つかない。安心して大丈夫。気持ちを平熱に、フラットに戻してゆける。そんな絶対的な信頼と、安心感があった。

そういうのって、即効性のある特効薬なわけではない。それでもゆっくりと文字を追い、なんどもなんども読み返してゆく中で、じわりじわりと、自分の平常心を取り戻してゆける気がした。たんたんと綴られる、彼らの日常の描写に安心した。そうだ、こういうのが”ふつう”のトーンだった。平常な気持ち、平常なトーンってこうだった。そんなふうに、アップでもダウンでもない日常の手ざわりを少しずつ、思い出すことができたのだ。

そんな経験をして、わたしのちっぽけな脳内にはひとつの仮説が生まれた。

それは「よくも悪くもない、とるにたらない話をじっくりと読むことは、気持ちが不安定なときに、それを平常へと近づけるチューニング効果があるのではないか」というものである。

……もっともらしく書いてみたが、たいしたことは書いていない。つまりは「どうでもいい話って、肩の力を抜いたり、気持ちをフラットにしてくれたりするよね」ってことだ。

べつにそれ自体は、ぜんぜん真新しい話ではないと思う。

でもWeb上って、よくも悪くも膨大な数の文章があふれているから、当時のメンタルぼろ雑巾期のわたしは、なかなかアクセスしようと思えなかったのだ。安心できる、攻撃されないものだけが読みたいのだけれど、Webではよほど自分を律することが得意でないと、それが難しいような気がした。

求める求めないにかかわらず、次から次へと、いろいろなひとのいろいろな感情が流れ込んでくる、その「便利な(はずの)設計」が苦しかった。自分の過去noteすら、「感情が強すぎるもの」は読みたいと思えなくなっていた。すがるように、お守りみたいに、紙の本を繰り返し読んだ。

少し元気になって落ち着いてきたころ、Webにも、そういう場があればいいのになと思うようになった。ほぼ同じころに定期マガジンを始めようと思いたち、せっかくクローズドに守られた場を作るのなら、意識的に「安心して読めるもの」だけを、集めてゆきたいなと思った。

たとえば自分や、自分のように気持ちがアップダウンしやすいようなひとが、日常の手ざわりを少しだけ思い出せるようなもの。はたまた、仕事モードなランチタイムに、日常の空気に触れて、脳みそをリフレッシュしたりできるようなもの。ときには、気持ちが消耗しているような日にも、だれかのまぶしさとか、強すぎる感情に苦しくなったりしないもの。エモーショナルすぎず、たんたんとした温度感のもの。

定期マガジンに入れるエッセイの内容を考えるにあたって、意識しているのはそういった点だ。表現を変えただけでほぼ同じことを言っているものもあるのだけれど、少しでも伝わればと思って下記に羅列してみる。

■『とるにたらない話をしよう』の収録指針のようなもの
・気持ちのチューニングにつながりそうな、よくもわるくもない話(平熱感、フラット感)
・エモーショナルすぎないもの

・プラスでもネガティブでも感情をゆさぶり「すぎる」ものは入れない
・心配、不安、苦しい気持ちになってしまうようなものは入れない
・疲れた日に自分が読んだら「まぶしすぎる」ものも入れない
・じんわりほっこり系もあってよいが、マガジン全体としてその方向に偏りすぎないようにバランスをとる

そうそう、テーマとして意識しているのは「気持ちのチューニング」なのだけれど、そのためにより具体的に意識しているのは「プラスにしろマイナスにしろ、感情の振れ幅が大きすぎるものを入れない」ことだ。

強く感情を揺さぶる文章は、書けば返ってくる反応も強い。

でもそういう文章って、自分が元気なときには共感して読めても、自分が何かを見失ったり、気持ちがぼろ雑巾だったりするときには、とても読めない。読むと、さらにボロボロになってしまったりする。だれかががんばっている姿を見て「ああ自分もがんばろう」と思えるのは比較的元気なときだ。

ちなみにこれは、だれかの書くものについて何かを言っているわけではなくて、自分自身がこれまで書いてきたnoteのことを言っているのである。

時を経て読み返してみれば、わたしの過去noteには、プラスにしろネガティブにしろ、感情をゆさぶる系のnoteもたくさんあった。当時はむしろ「いいことも悪いことも雑多に書きたい」というのを意識していたから、それはそれでよかったと思っている。ただそのぶん、「気持ちが疲れてるときは、書いた自分ですら読みたいと思えないなぁ」と思えるものもあったりした。

だからこそ、定期マガジンにはきちんと意識して「なるべく平常トーンの話」だけを、集めてゆきたいなと思ったのだ。

ちょっと気分転換したいなってとき、文庫本をひらくような感覚でアクセスしてもらえるような。ゆくゆくはそんなマガジンになったら嬉しい。

たとえば最近でいうと、「むすめの入院日記(全17回)」は無料noteとし、定期マガジンには入れていない。生々しい感情で不安や心配をあおってしまうようなものは、絶対に定期マガジンとは切り分けたいと思ったからだ。

また、月に1、2度ほど購読者さん向けのおてがみを書いているのだが、前回の「おてがみです2」でも、内容の切り分けについて少し触れた。これまで書いてきたことと重複する部分もあるけれど、せっかくなのでダメ押し的に、ちょっとだけ引用しておく。

”この定期購読マガジンは「とるにたらない」をテーマにしているとおり、「疲れた日でも読めるようなもの」「気持ちが不安定なときに気持ちをチューニングして、平常心に戻せるようなもの」になればいいなあと思って運営しています。だからドキドキしたり、不安になったり、心配になったりするような、プラスにしろマイナスにしろ感情が”強い”ものは、意識的に、入れないようにしたいなと思っていて。

自分自身も、元気なときには「いいねいいね」と読めるものが、疲れている日にはまぶしすぎたり、受け入れる気持ちの余裕がなかったり、そんな自分のことでいっぱいいっぱいな自分にさらにへこんじゃったりする。だからこのマガジンに限っては、どんな日でも安心して読めるというか、自分が疲れた日でも読めるような「とるにたらない」話をつらぬきたいな、と思う次第なのです。「ねえ、どうでもいいけどスカーチョの裾トイレにつくんやけど」とか「レジの小銭出し間違えて無意味に1円かえってきたんやけど」みたいな。それをまじめに書きたい。”

実際はまだまだ、自分のなかでも波があるなあと課題感をもっている。時間がたってから読み返して、ああちょっと重たかったかなあとか、もうちょっとフラットな温度感がよかったなとか、ひとり反省会を繰り返したりして。

だから正確には、すでに「こうである」というよりはまだ「こうでありたいとめざしている」なのだと思う。きっといまご購読いただいている方々は、そんなわたしの未熟なゆらぎもわかったうえで、あたたかく笑いながら見守ってくださっているのだろうな、とも。

それでも、上に書いたような内容にすこしずつでも近づけてゆきたい。それを意識することだけは忘れずに、しゅくしゅくと更新している。

ところでちょっと話は変わるけれど、以前、とある大好きなnoterさん(っていうかハネサエ.さん)とおしゃべりをしていたとき、「noteの“味つけ”ってあるよね。結構濃いっていうか、こってりっていうか」というフレーズが出た。ああ、なんかそれわかるなあ、と思って、それがしばらく頭の中に残っていて。

定期マガジンの記事を書くにあたっても、よく“味つけ”のことに思いを馳せる。

もちろん、こってりにはこってりのおいしさがあるから、こってりが悪いなんてまったく思わない。たとえば食にたとえるなら、豚カツとか唐揚げとかミラノ風ドリアとか、高カロリーなものってだいたい人気だ。胃腸が元気なときには「待ってた!」ってなるし、そういうときに食べると「これこれ〜!たまらん!」ってめっちゃおいしい。

ただ、体調がいまいちなときに同じメニューを出されると「ごめん、ちょっと今日は無理かも……(ごめん、おいしいって知ってるのに、なんかわたしだけ共感できなくてごめん……)」って、なぜだかちょっとした罪悪感とともに感じて、くるしくなってしまうこともあるよね。ってだけの話で。

それに、そういう感情をいれこんだもののほうが、noteでは共感を得やすいのもまた事実だと思う。わたしもエモーショナルなものを書きたい気分のときはあるし、そういうときはこれからもきっと書く(ものすごい横道にそれるけど、「エモい」ってことばがいまだに自分のことばにできなくて、ネタ以外ではどうしても使おうと思えない、化石みたいな30代はもはやわたしくらいなもんなんだろうか……?)。

いま書いているこのnoteだって、味つけで言うならだいぶジャンキーだ。そうだな、クリーミーというよりは、こってり系の中華炒めみたいな感じ。おなかペコペコ食欲旺盛なときならおいしいけれど、ボリュームも重たいし、具も入りすぎだし、我ながら疲れたときには読みたくないなあ、と思う。

でもそんなフラフラしたどっちつかずの自分だからこそ、定期マガジンのエッセイについては、味つけを極力、「さっぱり薄めに、胃にもたれない感じ」で統一したいなあ、と思ったのだ(だからこれは、自分にとってはけっこうなチャレンジだったりもする)。

なんだろう。「塩味」かなあ。でもひとくちに「塩味」と言っても、物によってはけっこうしょっぱかったりするのよね。

この間、スーパーで塩サンマを買ってさ。売り場の人に聞いたら「塩抜きなしでそのまま焼いて大丈夫ですよ」と言うのでそのまま焼いたら、ギリギリとしょっぱくて、後悔したんだ。喉かわくし。いや、なんの話だっけ。

そう、だから「塩味」というのもちょっとすでに濃い気がする。塩はパラッと入れるけれど、はっきり「塩味」って打ち出さないくらいの、「ほんのり」ぐらいがいい。

そうだな、家でつくる、ごくごく薄味の野菜の浅漬け、みたいな。市販の漬物とか外食の漬物って「しょっぱっ!」ってなったりするから。

しかも浅漬けってべつに、献立に「あってもなくても」いい存在。

なくてもいいんだけど、まああると、箸休めというか、メインのおかずに飽きたりしたときに、ちょっと気分転換ができてうれしいよね、みたいな。

そんでもって単品では、豚カツとか唐揚げを食べたときみたいなガッツリとした満足感はなくて。だからちょっと、物足りないようで。

でもたとえば、「あー、今日はお昼ごはん食べ過ぎちゃったから晩ごはんいらないかなあ」って胃もたれ具合のときでも、浅漬けを目の前に出されたら、ついカリッとパリッと、箸がすすんじゃったりして。あ、むしろちょっとリフレッシュしたかも、ってなる。

まあなにせ、未熟なものが作ってるおうちの浅漬けなんでね、塩加減も目分量だし、ときには薄味すぎたり、しょっぱかったり、まちまちなんですけどね。それでも基本、油分は少なめ、胃もたれしかけたときでも安心してどうぞ、みたいな。

……何の話だかわからなくなってきた。

とりあえずそんな感じで、たんたんとした日常の温度感の、胃もたれしすぎないようなお話を、まじめに書いていけたらいいな、そこをめざしてゆきたいなあ、と思っている。これもやっぱりめざしている、のだけれど。

実際はいつも、これでいいのだろうか、これで本当にいいのだろうかと自問しながら予約投稿ボタンを押す。むしろ無料公開noteの比にならないほど、その気持ちは強まった。

作品として、対価をいただいても恥ずかしくないと(少なくとも「その時点」の自分が)納得できる状態になっているか、を毎回自分に問うようになった。日によっては、公開直前まで推敲を重ねることもあるし、公開したあとで「ああ、ちょっとここ違ったかもなあ」と感じてしまうこともある。編集さん不在の葛藤。

だから、道半ばすぎる感覚はじゅうぶんにあるけれど、それでもとりあえずめざしている。「おうちの浅漬け」系(←?)のエッセイを書きつづけることを。なにごとも、はじめるより、つづけるほうがむずかしいから。

浅漬け系エッセイ(なんだかなあ)が、少しずつ少しずつ、このマガジンに蓄積していって。購読くださっている方が半年後くらいに、ちょっとまとめて読んでみようかなと思い立ったら、スマホを通じて、このマガジンが1冊の「文庫本」みたいに機能したら、そんな嬉しいことってないなあ、と妄想している。それを励みにつづけている。

いま思い描いているこのイメージを現実にできるかどうかは、まだわからないけれど。

とりあえず、「さて、ちょっと気分転換するかな」ってとき、まず自分自身が、読んでもいいかなと思えるものを。

これからもぽちらぽちらと、地道に更新していきたい。

ここまでの文章を読んでくださって、もし「ちょっと興味がわいたよ」という方がいらっしゃったら、定期マガジンはこちらから。

今は原則として、火・金曜日の週2回+αで更新しています。無料の書き出し部分やタイトルからも、雰囲気感じとっていただけるかもしれません。

ちなみに最初から言っておくとこのマガジンは、「ほっこりするもの”だけ”が読みたい」という方には向かないと思う。ほっこりもたまに入れたいけれど、どちらかというと、日常の中にひそんでいる「わちゃ〜」なことをハハッて笑いたいとか、笑いにすらならない瞬間をきりとる、その地味すぎるおもしろさを共有できるような方は、たぶん向いていると思う(何様)。

(さらにどうでもいい情報ですが、予約投稿設定が朝でも夜でもなく基本的にお昼前ごろなのは、わたしが会社員時代、ひとりランチで文庫本の中に逃避するのが唯一のたのしみだったからです)

また、開始から読んでくださっている、パイオニア精神あふれるみなさまは、ほんとうにいつもありがとうございます。

当初からお読みいただいている方々には、これまで書いてきたような試行錯誤感とか、発展途上なところも全部ふくめて、お見せしてしまっているだろうなあと思っていて。なんだかおかしいですが、それでもわたしが更新をつづけられるのは「だいじょぶ、賢いみなさんにはどうせ最初っから全部バレてる」という妙なひらきなおりが、あるからかもしれません。

まだまだ未熟なゆえのゆらぎが見受けられることもあるかと思いますが、上に書いてきたような方向をめざしつつ、しゅくしゅくと更新しつづけてゆく所存ですので、どうか引き続きあたたかく、ときに生ぬるく見守ってくださったらうれしいです。

いつか、ささやかな恩返しか、恩送りができるくらいになりたいです。

それではみなさま、今日もよき日を。


(おわり)


P.S.ところであんた「おうちの浅漬け」はないわ……、と思われたネーミングセンスにあふれたみなさま、せめてこう言えば?というアイデアがありましたら、ぜひこそっと耳打ちしてください。note酒場にも、ぬぼっと出没予定です。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。