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季節と季節のあいだで

"花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは”
(花は満開のときだけを、月は雲りがないのだけを見るものであろうか、いやそうではない)

兼好法師が書いた『徒然草』の有名な一節だ。

季節と季節のあいだ、うつろいゆく自然の美しさに接すると、いつもこのフレーズが脳内で再生される。

中途半端な季節に、大勢のひとに注目されることなく、ひっそりと過ぎてゆく景色が好きだ。

そんなふうに言ったらちょっと格好つけすぎだと言われるかもしれない。でも、そういう地味な美しさがほんとうに好きだ。

たとえばあじさいが満開になる前、まだ色づきもしない薄緑色の小さな花びらが、青々しいあじさいのてっぺんに小さくちょこんと開きはじめたのを見たとき。

たとえば華々しい桜の季節が終わり、にぎやかな夏へと向かう季節の中で、いつのまにか足もとで通り過ぎてゆく、いくつもの小さな花々に気づいたとき。

あざやかな紅葉の季節が過ぎ、美しい雪の降る季節へと向かうはざまで、しずかに、ひそやかに冬支度を整えてゆく木々たちの、息づかいを聞いたような気がしたとき。

派手さはないけれど、春夏秋冬のすきまで、自然は少しずつ少しずつ、変化をつづけている。一瞬で枯れ枝に花がさくわけではないし、緑色の葉があるとき突然、パッと紅葉するわけでもない。刻々と、変化しつづけているのだ。

だれに何を言われることもなく、ただただ花自身が、木々自身がそのことを知っているのだな。変化の過程にふと接したとき、いつもそう思わされる。

* * *

今日、近所の公園にでかけたら、もうひっそりと桜がさいていた。九州は早いといえど、まだ2月中旬なのになあ、なんて小さくおどろく。

娘のお世話を夫に託し、ひさびさにゆっくりと自然と向き合う。

まだ「盛り」とはいえない、まばらな花と、つぼみたち。

でもこのくらいの時期が、とても好きだ。

また、季節がひとつめぐる。花々や木々や動物たちは、だれに指図されるわけでもなく、しずかにその準備をすすめている。太古からめぐりつづけてきたサイクルを、そこに感じる。

その大きなサイクルに触れると、日々のいろいろな悩みごとや、雑多な作業なんてものがすこし遠くに思える。目の前の景色、ただその一片だけを集中して見ているとき、自分がリセットされるような感覚を味わう。

自分が悩もうが悩まなかろうが、季節はまたひとつ、めぐってゆくのだ。

その事実と、美しさに感動して、自分のそんな気持ちをどうにか、のこしてみたくて、わたしはシャッターを切る。

文字でも、写真でも、すくいきれないものがあることをわかっていながら、それでもかすかな何かをすくいとってみたくて、その景色と対峙する。

すべての表現は不完全だ、自然にはかなわない。

そんな思いを抱えたまま、シャッター越しに自然を見ていて、その美しさに感嘆する。その尊さに、ふと泣きそうな気持ちになることもある。

だれに何をいわれることなく、花々が、木々が知っている。太古からのサイクル。

自分が忘れてきた何かを、そっと呼び起こしてくれるようなその景色を、やっぱりすくおうとせずにはいられない。

どうあがいたって不完全だって、わかっているのに。

あ、ひこうき雲。

梅は、盛りであった。

ちゃくちゃくと、そのときを待っている。

まだまだ寒い冬空の日陰で、しずかな春が咲いていた。ぴんぼけ。

* * *

花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。

また、季節がめぐってゆく。めぐってくれる。

うつろいゆく季節のはざまで、大声をあげることなく、だれかの注目を集めようともせず、しゅくしゅくと、つぎの季節の準備をすすめてゆく自然たちを、とても美しいと思う。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。