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【パリ8区】 シャンゼリゼ大通り裏のMarbeuf通り

Rue Marbeuf(マルブフ通り)は、パリ8区、20 Avenue George V(ジョルジュ・サンク大通り20番地)から、39 Avenue des Champs Élysées(シャンゼリゼ大通り39番地)を結ぶ通り。

名前の由来は、その昔、近隣に jardin Marbeuf(マルブフ庭園)があり、そこから名付けられたそうです。

通りの歴史

この通りの形としては、1798年から存在し、元々は、パリ20区 Menilmontant(メニルモンタン)から Pont de l'Alma(アルマ橋)付近のセーヌ川へ注ぐ小川の跡だったそうで、元々の呼び名は【 Rue des Gourdes】(gourdesとは、フランス語で水筒という意味)。

当時、Place de la Concorde(コンコルド広場)周辺、具体的に、東側は、具体的には、現在の Avenue Georges V(ジョルジュ・サンク大通り)、西側は、セーヌ川から現在の rue du Faubourg-Saint-Honoré(フォブール・サントノレ通り)辺り一帯が【marais des Gourdes】という沼地(maraisとは、フランス語で沼地という意味)とだったそうで、この通りの名前にも【gourdes】がつけられたそうです。

やがて、1829年10月19日に現在の【Rue Marbeuf】に改名され、現在に至ります。

ナポレオン三世時代の第2帝政下では、まだ、現在のように建物はそんなに存在しておらず、ホテルが1軒と、邸宅1軒のみだったそうですが、この当時、現在のシャンゼリゼ大通り67番地から69番地辺りを直角するような形で、【Allée Marbeuf(もしくは Passage Marbeuf)】という私道が存在しており、1812年にその私道近くの建物を所有する不動産会社が、東洋の趣を感じさせるような庭園【Jardin Marbeuf】(マルブフ庭園)を作ったんだそうです。

第2次世界大戦前には、現在のソシエテ・ジェネラルの不動産部門が、この通りの建物を計16棟所有しておりましたが、第2次世界大戦中のドイツ占領下では、ドイツ軍所有になったものの、その後、フランス解放により、1947年から1948年の間は、しばらく、国有状態だったそうです。

また、1981年、1982年とこの付近で爆発騒動が起こっており、1982年には、死者一人、重軽傷患者63人という惨事にまで発展した事件があったそうです。

(参考資料:ウィキペディアフランス語ページ Rue Marbeufの項より)

▶︎通りの場所はこちら

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1900年ごろの写真

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Avenue des Champs Élysées(シャンゼリゼ大通り)側からRue Marbeuf(マルブフ通り)側を撮影した1枚。

1900年頃の写真と比較すると、当時、左側の写真に写り込んでいる食料品やワインを取り扱っているお店は現在、銀行になっており、右側の入口も、飲食店に変わっておりますが、建物の趣は当時の面影が色濃く感じられる通りのような気がします。
(写真:2019年6月現在)

通りの主な見どころ&記憶

5番地
Restaurant -  La Fermette Marbeuf -(現在は BeefBar という名前で営業中)
1898年創業のアール・ヌーヴォー建築が美しい建築家 Émile Huitréと画家Jules Wielhorski が外観を手がけたレストラン。
一時期、創業初期の装飾がなくなっていたそうなんですが、1978年に創業時の装飾(ガラス、壁画など)が発見され、1983年にパリの歴史的建造物に指定されております。

32番地
この地にかつて、Henri-Lepage集合住宅が存在し、この通りから現在の17 rue de Marignan(マリニャン通り17番地)までを結ぶ【Passage Ruffin】というパッサージュ(近道)が存在していたそうです。

33番地
1981年、1982年に起こった爆発騒動事件の事件現場。
死者1名、重軽傷患者63名という惨事にまで発展した事件だったそうです。

(関連資料:ウィキペディアフランス語ページ Rue Marbeufの項より)

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名前の由来

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