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「ご注文はうさぎですか?」の魅力について──名もなき花の持つ世界

はじめに

今月十日、TVアニメ「ご注文はうさぎですか?BLOOM」の放送が始まりました。二期放送から五年、一時期は種田さんの活動休止により続編も危ぶまれましたが、今回無事に待望の三期が放送されることとなりました。いちファンとして本当に嬉しい限りです。

本作は芳文社の四コマ雑誌「まんがタイムきららMAX」に原作を持つ所謂「日常系」の作品です。本稿ではそんな日常系の在り方にも触れながら、改めて「ごちうさ」の魅力について考えます。




面白さはどこからやってくるのか

「ご注文はうさぎですか?」(以下、ごちうさ)に限らず日常系の作品を見ているとしばしば、『日常系の何が面白いのか、物語的な起伏が無く退屈してしまう。』といった質問を受けます。そしておそらくほとんどの人が多かれ少なかれそういった疑問を抱いたことがあると思います。ご指摘の通り、内容には大きな事件もなく、最後にどんでん返しがあるわけでもない。既に知っているものを達観して見つめる行為にも似ています。私たちはいったい、どこに惹かれてこの掴み所のない、どこにでもあるような物語に取り憑かれているのでしょうか。

あらかじめ、勘違いのないように述べておくと、これらは全くの「無変化」な物語ではありません。日常系とはそもそも作品の「描かれ方」のことであって本当に一から十まで単調なものが続いているわけではありません。例えば、一期第十羽「対お姉ちゃん用決戦部隊、通称チマメ隊」では次のようなやりとりが見られます。

チノの家に泊まることとなったマヤとメグ

マヤ「何して遊ぶ?」

チノ「クロスワードやりましょう」

メグ「心理テストは〜?」

マヤ「もっとハジけろよ!」

チノ「でも、私の部屋で遊べるものはチェスくらいしか……。」

チノは普段から一人でいることも多く、複数人での遊びをあまり知りません。(この後、チノの父親がパーティゲームを持ってきてくれます。)

一頻り遊んだ後、カップを見つめるチノ。

ふとした瞬間にもココアのことを想う描写が見られます。(この日ココアは千夜の家に泊まっている。)

部屋を出てココアに電話をかけようかと迷うチノ。そこに丁度ココアからの着信が入ります。

半分開かれた扉と画面に差し込む灯り。

これまでの人見知りなチノが他者(部屋の中にいるマヤメグ)へと歩み寄ろうとすることの暗示にも見て取れます。

ココアと通話するチノ。

(前略)

ココア「私も一緒に遊びたかったな……」

チノ「え、泣くほどですか……? で、でもココアさんと暮らし慣れてなかったら、緊張してしまって二人を家に呼ぶこともなかったのかもしれません。」

ココア「……そっかぁ!」

チノがココアと一緒に過ごすことによって少しずつ、他者との関係に対し、前向きになってきたことが窺えます。こうした心境の変化は僅かながらも着実に進む、等身大の精神的成長と言えるでしょう。

また、二期第八羽「スニーキングストーキングストーカーストーリー」では、季節が巡り彼女たちが進級し、クラス替え、進学先などが話の題目とされ、最新の原作では実際に進学します。

このように内面の変化のみならず、外面的な変化(時間の経過)も確認できます。


では、こうした僅かな変化にのみ固執して視聴者は作品を楽しんでいるのでしょうか。おそらくそれでは上に述べた疑問の通り、一見してわからないものであり、人によってはその流れの緩やかさと自明さに飽き飽きしてしまうこととなるでしょう。ですので今回はその魅力の根源をここからもう少し探っていこうと思います。

受動的視聴から能動的観測へ

先の疑問に基づいて、描かれているものが一見「無意味」であると仮定して考えてみましょう。視聴者は前項のように一見「無意味」に見えるところから「意味」を見出そうとしています。(もちろん純粋な「かわいい」という感情を生み出すことが作品の見出すまでもない「意味」であることは前提として。)そして「意味」とは心の救いであったり、趣味としての安らぎであったり、忘れてしまった、存在し得なかった大切な時間の発掘であったりするでしょう。そういったものを動機──単なる現実逃避か、純粋に作品と向き合おうとしているのか──はどうあれ視聴者は求めていると言えます。


では「平凡な日常」の対極に位置するであろう、大きな起承転結や社会的問題を孕む「立身出世的」(少年漫画的)な物語を摂取するとき私たちはどうしているでしょうか。あえて対比を意識した指摘をするならば、その大きな物語の波にいつの間にか飲み込まれ、自ら手を伸ばすまでもなくその魅力に没頭しているはずです。「意味」が視聴者の意思を奪い去るのに対して「無意味さ」からは視聴者の能動的な観測が生まれているのです。


例えば、道端に一輪の小さな花が咲いているとしましょう。その花は通りゆく誰からも見向きもされず、観測されない限り存在しないのと同義(無意味)の花です。ここに足を止めその花を愛でるという行為(意味を求めた観測)があったとき、何が起きるのか。おそらく観測者たちはアスファルトから力強く伸びる様に感動したり、その健気な様相に儚さを覚えたり、はたまた生物学的になぜその花がここに生えているのか考えたりと人によって様々な捉え方があるはずです。このとき人は現実に存在する花と自分の持つ情報──夢想の世界、虚構──を自らの内でつなぎとめようとしているのです。つまり「無意味」に「意味」を見出そうとするとき、そこには新たな世界──その人が紡いだ世界──が立ち現れるのです。(この世界は基本、本人にしか観測できないものですが、写真や詩などの媒体を通して具現化することもあります。)

魅力のありか

新たな世界は自己の内側と深く結びついているため、その対象となるものは視聴者の数だけ存在し得るはずです。そして、そこには同時に普遍な作品への多様性の接続が見られるとも言えるでしょう。

新たな世界に足を踏み入れるとき、世界はその歩みごと視聴者の意識を巻き込み、本人が無意識のうちに望んでいる物語へと変容していくのではないでしょうか。魅力が完成されたかたちで既にあるのではなく、視聴者それぞれの発見へと向かう足取り──作品へのアプローチそのもの──こそが個人の内にしか存在しない、多種多様な「魅力」を引き出し、新たな可能性を形作っているのではないかと思うのです。

当初の疑問に戻りましょう。なぜ水面のような平坦で掴み所のないものに我々は手を伸ばし続けるのか。それは、一見外部へと伸ばしているようで、その実水面に移った自身の意識へと深く深く進んでおり、掴むことができないからこそ伸ばし続けているのだと言えます。この「ごちうさ」という作品の魅力が何なのかという問いに対しては、この作品が現実に浸っている視聴者の「日常」という鏡になることで、その人が本来持つ意思の目覚め(ひいては多様性)を誘発していることだと言えるでしょう。それ故、他者はその人が何に魅了されているのか認識することができないのです。



おわりに

三期(BLOOM)に感化され筆を取りましたが、これまでごちうさについて考えてきたことの一部でもあります。昨今ではコロナショックによって当たり前の概念が刻々と変化してきています。そんな今だからこそ改めて「日常」の持つフィクション性を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。今回、かなり踏み込んだ解釈もしていますが、少しでも新たな視点の提示が出来たのであれば幸いです。私自身、この作品に支えられてきた、というと大袈裟かもしれませんが、ずっと楽しませてもらってきました。今後も末長く広がっていくといいなと思います。

最後になりましたが、原作のKoi先生、アニメの橋本監督をはじめ作品に関わるすべての方にありがとうをお返しします。

引用・参照

TVアニメ『ご注文はうさぎですか?』公式Twitter

まんがタイムきらら編集部 公式Twitter

Amazon Prime Video

第十羽「対お姉ちゃん用決戦部隊、通称チマメ隊」脚本:ふでやすかずゆき・絵コンテ:益山亮司・演出:益山亮司・作画監督:中田正彦

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