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『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』完 アニメーションの意義

現在第3期放送中のTVアニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』に関して。

本作は原作がライトノベルであるということもあり、言葉遊びが非常に特徴的な作品である。第3期10話では陽乃が『形だけ、言葉だけこねくり回して、目をそらして、……上手く言い訳して、理屈つけて、そうやって誤魔化して、騙してみたんだよね。』と多少意地悪く表現している。

こうした所謂屁理屈によって、主人公、比企谷八幡がのらりくらりと問題を解決していくのがシリーズを通しての魅力であり特徴であった。

しかし、同時に本当に必要なことや大切なこと──彼らは“本物”と呼んでいる──は決して言葉にしないという側面もあった。第3期は完結編であることからその“本物”を手に入れること、もしくはそうしないことを大きな主題として置いている。

まずは、この言葉にする、しないという点に着目してこれまでのエピソードを振り返りたい。

第3期 4話「ふと、由比ヶ浜結衣は未来に思いを馳せる。」

今期でも特にインパクトのあった回。ラスト、八幡から目の届かない場所で一人すすり泣く彼女の姿に胸を打たれた人は多いだろう。

ラストシーン、彼女は一度八幡の目の前で涙を流してしまう。しかしやはりその場では涙の理由を『平気平気、これ結構女子あるあるだと思うし……大袈裟。』とはぐらかしてしまう。

その後、彼女自身その思いと涙の真の理由を独白しているが、やはり一番大切なこと──恋心と自省──は言葉にして伝えることができていない。

第2期 4話「そして、由比ヶ浜結衣は宣言する。」

第3期の4話を視聴して真っ先に思い浮かんだのが、第2期の同じく4話だった。八幡と結衣、二人での下校中に大きな転換が訪れるという点において類似している。

第2期『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。』続では、第3期よりも、間違い続けるという構造上はぐらかしが顕著に窺える。

第3期の4話を実質敗北宣言とするなら、この回は告白宣言であった。雪乃が生徒会選挙に立候補することに対し、結衣は自らも立候補し雪乃に生徒会をさせない、奉仕部を存続させる──今の関係を持続させる──ことを宣言した。現状維持の宣言、これも言葉にはしていないが、彼女自身の彼に対する恋愛感情を改めて確認する行為であると同時に雪乃に対する宣戦布告でもあった。

また、八幡に頼らないという彼女の決意は皮肉にも第3期4話の涙につながっている。

第3期 5話「しみじみと、平塚静はいつかの昔を懐かしむ。」

5話で印象的だったのは八幡と雪乃の対立宣言、そして視聴者を代弁する一色いろはの存在だった。

八幡は雪乃に対して違うやり方でプロムを実現させることを宣言し、そこに勝負を持ちかける。雪乃はこれに乗り『勝負に勝った方がなんでも言うことを聞かせる』ことを条件とする。もちろん言葉となっているのは奉仕部ゲームの延長線上にあるものだが、いろはの指摘通り、これは彼らの関係性──陽乃の言う共依存関係──に決着をつける、恋愛感情を含む全ての感情に結末を与えるという宣言であった。

第2期の4話と比較すると、互いに意思の疎通ができていること、いろはという傍観者が言葉にしてしまっている(もちろん実際は胸の内で、だが)ことが相違としてある。彼らは終わりに向かいつつあることを確認し、いろはが退場する──代弁者として視聴者側へ寄る──ことで視聴者は再度その事実を確認させられている。今更の茶番に対して、まさに『知らんがな。』である。

第3期の4話とも比較しておくと、頼れなかった結衣と頼ることのできた雪乃で結末がキッパリと分かれている。しかし、もちろんその違いや要因は『簡単な言葉一つで括る』ことのできるものではないのも事実だろう。

ここでもう一度、言葉にする、しないという問題に立ち戻ってみる。

本作は、原作小説が「このライトノベルがすごい!」大賞において殿堂入りを果たしているほどの“完成された”文章である。これがアニメ化することによって、何が可視化され、何がされなかったのか。

小説という媒体の特徴として、段落を読み飛ばしたりさえしなければ、読者はほぼ確実にキャラクターの感情を拾うことができるという点が挙げられる。対してアニメーションの視聴者は、軽やかに楽しそうに走るという動作を事細かに言語化して理解している訳ではないし、顔を引きつらせて「大丈夫だよ」というセリフを吐くキャラクターにそれ以上の説明を必要としない。たとえ少し俯いている、声が低いといった僅かな変化、巧みな演出を見落としていたとしても、それを雰囲気で感覚的に感じ取っているのである。

文章、言葉となっていることで過不足なく伝わるのはもちろんだが、アニメーション、映像と音という一次的な情報が連続的に流れてくることで、可視化されたものを見落とす可能性、思考の余白が生まれる。これは、より現実に即した時間的な体験──より瞬時に、思考よりも直感が先行する状態──であると言える。

だからこそ、雪乃や結衣が言葉にしていなくとも、むしろされていないからこそ、流れ込んでくる情報から私たちは感覚的な確信に基づいて発想を始めることができるのである。

彼らのいう“本物”は、“青春”そのものとよく似ていてまるで実態のない、掴みようのない、言葉にすらならないものである。これを間違え間違え踠き続けるという作品のテーマは、不完全な形により近づくという意味でアニメーションである意義が存在するのではないかと感じている。

引用

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』公式ホームページ
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』公式Twitter
prime video 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』

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