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「がっこうぐらし!」と生きること──現実と虚構の狭間

 本稿は、芳文社『まんがタイムきららフォワード』にて2012年7月号から2020年1月号にかけて掲載された「がっこうぐらし!」(完結済み、原作コミックス全12巻)に関する論考です。

全12巻のネタバレを含む。(おたより編は除く)


はじめに

 2020年1月、7年半の連載に幕を下ろした「がっこうぐらし!」。2015年にはアニメ化され、そのインパクトと共に記憶している人も多いのではないだろうか。

 本作の特徴は言うまでもなく、日常の代名詞である「まんがタイムきらら」で「ゾンビサバイバル」的なものを描き切ったことだろう。しかし、その意外性から読者も長い間手探りの状態で本作と向きあってきたはずだ。

 これまでも様々な憶測や考察があったが、本稿では最終巻の内容を踏まえた上で改めて漫画「がっこうぐらし!」という作品を読み直していく。


拡張現実──現実を補強する虚構

 本作を語る上で、まず欠かせないのが第一話「はじまり」で使われた丈槍由紀の主観トリックである。ここでは、由紀が見ている賑やかな学園生活が実は幻影であり、実態はゾンビ感染によって崩壊した世界であることが明かされる。

 ここに読者は、何が幻影で何が現実なのかを見極めながら、描いてあることに疑いをかけながら本作品を読み進めていくことを要求される。作品の主軸「リアルとフィクション」二項対立の誕生である。

 問題は、第五話「まぼろし」で明かされる佐倉慈の幻影。話の要所要所で由紀は慈(幻影)からアドバイスや勇気を受け取っているが、これはまさに現実を自らの内の想像力(虚構)によって拡張し、より良いものへと変容させていくことに他ならない。

 こうした考え方は学園生活部メンバーにも反映されている。例えば、第三話「らいねん」では、危険が伴うはずの物資調達のことを「肝試し」と表現し、精神的な負担を軽減した上でタスクを遂行している。もちろんこれが「学園生活部」の強みであり精神性そのものである事は言を俟たないだろう。


虚構の可能性と危うさ

 そうして描かれていく、可能性としての虚構──極限状態で人間が人間らしく生きる為の最終ライン、精神衛生を維持するためのもの──に最初に問題点を指摘したのが、外部からの来訪者であり、現実主義者の直樹美紀である。第十四話「うんどうかい」では学園生活部に仮入部した美紀が、部のあり方に困惑する様子が描かれる。競技に夢中になり時折笑顔を覗かせる一方、彼女の思考はどこまでも冷めており、由紀たちの関係を『ただの共依存』であると指摘する。

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3巻 第14話「うんどうかい」

 その後も、虚構をみる由紀とそれを心の支えにして生きる学園生活部に対して、美紀は厳しい眼差しを向ける。彼女が一人図書館へ行き、手に取ったのは「多重人格の実態と伝説」。学園生活部というコミュニティの内部に存在していた幻想の危うさを見抜くには、外部から持ち込まれた美紀の目である必要があったと考えられる。

 直樹美紀についてもう少し触れておく。彼女が生活していたのは、ショッピングモール最上階の一室。圭という友人と共に暮らしていたが、圭はあるタイミングで『生きてればそれでいいの?』と残し、部屋から出ていってしまう。美紀は圭を止められなかったと手記の中で語っているが、すなわち、心を殺してまで生きる意義を感じなかった圭に対して、美紀は狭く安全な一室に籠り、心を殺し肉体的な意味で生きながらえる。ことに重きを置いているのだと言える。ここからも直樹美紀というキャラクターに付与されているリアリストという性格を見てとることができる。

 以上を踏まえた上で、美紀と由紀(現実と虚構)の対立が顕在化するのが第十六話「おもいのたけ」。美紀は由紀に対し『妄想で現実を遠ざけても長続きしません』『すぐに破綻してもっと症状が悪くなるんです』と訴える。対して由紀は『喧嘩しちゃったみたいだから仲直りしないと』と全く話が噛み合わない。正面からぶつかろうとする限り、現実と虚構はどこまで行っても別世界だ。対立による分断がここではっきりすることとなった。その後、二人は仲直りのための対話を試みる。

 対話の中で由紀は『とにかくね 二人が疲れてるからわたしはその分元気でいようって思ったんだ』『二人は頑張ってるけどわたしは何もしてないからせめて笑顔でいたいなって』『でもみーくんには迷惑だったかなって』『だからごめんね』と語る。ここで美紀は、相容れない世界、由紀の見ている世界を認めた上で彼女が単に現実逃避をしているのでなく、それを演じているのでもなく、彼女なりの考えと思いやりで行動していることを知ることとなる。

 こうして美紀は、危うさを認識しながらも学園生活部の方針に前向きな理解を示すようになる(生きるという意思は合致していた)のだが、ともかくここに虚構の持つ利点のみでなく、弱点も露呈することとなった。


互いに影響する現実と虚構

 ここまで、現実と虚構という二つのキーワードに区分してキャラクターを見てきた。しかし、学園生活部は知っての通り、どちらか一方に偏ったあり方を取っているわけではない。由紀がいて、胡桃いて、悠里がいて、美紀がいる。それぞれがそれぞれを支え合うことによって、この共同体は成り立っている。虚構が現実を支え、現実もまた虚構を支えているように。そうした相互による支え合いが見て取れるエピソードがある。

 第二十九話「おわかれ」において。四人は燃えた後の学園で掃除を始める。その中で由紀は賑やかな学園生活を見ながらもそこに「かれら」を見てしまう。その後、第一話と重なるように彼女の『学校が好きだ……学校ってすごい……』という例の独白が始まるのだが、その先にあったはずの学園生活部の標識(現実における虚構のシンボルマーク)が焼け落ちてしまっているのを見た瞬間、堰を切ったように泣き出してしまう。これまで、現実をより豊かにしようと支えていた虚構が、現実の喪失によってその形を維持できなくなった瞬間である。

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5巻 第29話「おわかれ」

 こうして、第三十話のタイトルに「そつぎょう」とあるように、(半ば追われるようにではあるが、)由紀は学園と虚構から卒業し、その後、慈を見る機会も少なくなるのである。だからこそ、虚構とともにあった学園生活の記録である卒業アルバム(かたちとして残るもの)を現実で抱える描写は、幾重もの意味を持つのである。


生きること

 物語を進めて十巻第六十二話「みんな」から。学園生活部は、青襲椎子と共に旧ランダル本社ビルへ潜入するが、数日以内にランダル保護機構によって本社一帯が爆撃されることを知る。由紀たちはカウントダウンの迫る中、遂に「終わり」を意識し始める。

 解決策が見つからず悩む由紀は、ボーモン君(AI)に語りかける。最後までみんなで一緒に居たいと言う由紀の問いかけに対し、ボーモンはなぜかと問う。由紀は『だって……怖いよ……』と呟くが、ボーモンは重ねて『 怖いのが 嫌い だから? 』と問いかける。もちろん、「怖いのが嫌いだから」学園生活部は一緒にいるのではない。

 ここで由紀は皆と一緒にいたい理由を『一人だと……自分がどんな顔してるのかもわからない』としている。これはまさしく、他者存在によって自己の形を認識しようとすることである。自分が自分らしく生き続けるために、学園生活部は最後まで一緒にいることを決める。

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10巻 第62話「みんな」

 しかし、現実は非情にも進み続ける。皆で最後まで一緒にいることを決めたところで、現実での別れは必ず訪れる。胡桃は由紀に『どう別れたらおまえはおまえらしくいられる』のかと問う。わからないと答える由紀に対し、それは『ゆきちゃんが自分で決める』ことなのだと悠里は説く。さらに『私』とは何かを問う由紀に対し『先輩のこと信じて』いると美紀は答える。ここでの状況は、他者存在が自己を形作る要素の一つであることを踏まえた上で、究極的に人は孤独であり全ての選択権、決定権が自身に委ねられているのだと解釈することができる。そうして導き出した彼女の答えが、第六十二話では『わたしはっ……わたしは……』とそこで途切れているのだが、この台詞の続きが、最終巻第七十七話ラストへと繋がることとなる。


青襲椎子の指摘

 ランダル編(原作10〜12巻)から行動を共にすることとなった、青襲椎子。彼女は初期の美紀と同じように(しかし、さらに超人的な立場から。)幻想的な危うさを抱える学園生活部に対し、保護者としての視線を投げかける。

 椎子は科学者であり、どこまでも現実、事実に寄り添う人間である。学園生活部が有していなかった「知」という現実における圧倒的な武器を手に、生き残るための様々なアドバイスを授ける。しかし、彼女が最後に残したのは幻想──優しい嘘──であった。ここから何を受け取るべきか。

 椎子は、第七十一話「もういない」にてこう語る。『はっきりいっておまえたちは甘すぎた つらい現実と向かい合うくらいなら四人仲良く死ぬのを選ぶくらいに甘い』『だから わたしはおまえたちにつらい現実を押しつける役を選んだ』

 フィクションのもつ二面性についてはこれまで述べた通りだ。椎子は立場上、初めからその危うさに気付いていたはずだが、同時にそれがもつ可能性にも一定の評価を与えていた。(第六十四話「とうぼう」の中では、由紀のことを『ストレス対策』がうまいやつだと表現している。)彼女は、前に進み続ける意思、希望としての虚構を提示したが、やはり、ここまで現実と虚構の間を生きてきた学園生活部には、終局にあたって、そのあり方について結論を出すことが求められるはずだ。今更のようではあるが、第十四話では問題が宙吊りにされ、第二十九話ではその客観的事実が示された。第六十二話で改めて進む道を定めた学園生活部にとって、超えねばならない最後の壁として、この問題──二面性をどう扱うか、それを切り捨てるのか、それと心中するのか──が再び頭をもたげてくる。科学者である前に、虚無主義者でもあった青襲椎子の残したものは、その問題提起であり、ヒント(≒積極的なニヒリズム)であった。


夢と記憶の混濁

 夢とは非現実でありながら現実の記憶の影響を受けるものだ。

 第六十九話「おやすみ」にて、直樹美紀は夢を見る。夢の中、美紀は元々住んでいたショッピングモールの屋上で圭と会話をするのだが、あったようで無かったような内容である。彼女はかつて存在した場所で、存在し得なかった出来事を自らの内に再構築しているのだ。

 続けて第七十五話「いってきます」においても美紀は夢を見る。手を繋ぐ美紀と圭。前方の明かりに意識が向き、美紀は圭を見失ってしまう。後ろ姿を見つけ、慌てて手を伸ばす美紀だが、圭はただ微笑みを浮かべ振り向くのみである。(ここで途切れている。)そして、この微笑みもまた、現実には無かったはずのもののように見える。

 シーンは切り替わり、学園の屋上で拳銃を掲げる美紀。そこへ胡桃が現れる。美紀は自分が大切なことを忘れてしまっていたと、まるで告解するかの如くに語る。生きていればいずれ過去のことは忘れてしまう。そうして忘れて大切なものを失ってしまうのであれば、もうここで終わった方が良いのだと美紀は言う。しかし、胡桃は『本当はいっぱいある』のだと答える。忘れて、思い出してを繰り返し、それでも生きていれば全てが本当なのだと。

 虚構もまた、嘘──本当でないもの──なのだろうか。ここで美紀がみた夢は、圭のことを忘れてしまっていた罪の意識、生き続けることへの恐怖心からきている。それは彼女の精神においては“本当”のことであり、それもまた彼女を形作っている一部分であるはずなのだ。

 そもそも、リアルとフィクションの二項対立を打ち立てたのは誰であったか。我々読者である。物語の内を生きる彼女たちは世界の虚実、時空を問わず、これまでただ必死に生きようと進み続けてきたのである。相対化された人と人、現実世界と虚構世界がそれぞれにねじれ合い、二重螺旋の構造を作り出しているのならば、それこそが“生きること”なのではないだろうか。自分がどこにいるかではなく、自分の立っている場所──過去の間違いも、幼さも、悲しみも、苦しみも全てを肯定した先──こそが「私」であり「本当」なのである。

 因みに、夢の中で美紀が胡桃と語らう構図は、第三十話「そつぎょう」で胡桃が拳銃を掲げるシーンと対応している。過去に現実で起きたこと、記憶と呼応するコマはこの他にもいくつか存在する。これは虚実の世界線を越えるだけでなく、時空間すらも超えて、彼女たちの想いが受け継がれているものだと読むことができる。


「わたし」は「いま」「ここ」にいる

 第七十七話「ここにいます」

 自らの内側に潜む他人に対し、感謝と別れ(肯定)を告げた由紀は、ランダルとの通信を試みる。セリフにはこれまでの物語が収束し、遂に六十二話で示された答えの続きを彼女は語る。

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12巻 第77話「ここにいます」

 最後に一人で立ち続けるために、その歩みを止めないために、彼女はこれまでの自分と自分を作ってきた世界を受け入れる。丈槍由紀のいるところ、「いま」「ここ」において「わたし」という自己肯定を叫んでいるのである。無意味で無慈悲な虚無の世界において「生きる」ことには何よりも先ず、無に対して自己という点を打ち込むこと、存在の肯定が必要とされるのである。

 そうして、由紀は通信を終えた後、慈の墓(リアルのシンボル)の前で『一人でここまで来れた』こと=「現実に対する一つの答え」を報告するのである。


おわりに

 ここまで「がっこうぐらし!」という作品のもつ主だった特徴をくり抜きながら大まかに全体を論じてきた。広すぎるあまり、正直掴み切れたような、掴み切れていないような感覚ではあるが、最終巻あとがきでの「お話は、海のように広く広く繋がっていて……」という海法先生の一節には当時大変救われるような思いであった。パンデミック吹き荒れる現代に生きることを問う。今一度読み直すべき作品だ。


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引用・参照


原作:海法紀光(ニトロプラス) 作画:千葉サドル 発行所:株式会社 芳文社

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