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『自由な学校』の上映会に参加しての感想②――親が自由と向き合うには #057

①の続きです。

保護者が抱える“自由への不安”の正体は?

自由な学校では、時間割も宿題もなく、子どもたちがやりたいことを自分で決める――と聞くと、親としては不安にならないのかな?という率直な疑問がありました。この不安を言葉にしてみると、

  • 学業が遅れてしまうのではないかという不安

  • 中学生になったときに、小学校とのギャップで苦しむのではないかという不安

  • 周囲の子たちと馴染めるのかという不安

  • 将来、社会人としてやっていけるのかという不安

私自身、小・中・高と公立だったので、自由な学校のような“自由”を経験したことがありません。自分が知らないものや経験したことがないものに対しては、人はどうしても不安がつきまといます

ところが、映画の中でインタビューに答えてくださった保護者の方は、みなさん気持ちのいいくらい、とても晴れやかで穏やかな表情でした。

特に、卒業を控えた6年生の保護者の方は、中学校に上がる不安よりも、自由な学校で育った子どもたちが、これからどのように歩んでいくのかが楽しみでしょうがないという気持ちに溢れているように見えました。

学業についても、それはあとからでも学ぶことができるもの。それよりももっと大切なものを自由な学校で学ぶことができたという自負が感じられました。それは、子どもへの大きな信頼感の表われだと思います。

もちろん、すべての不安がゼロというわけではないと思いますが、それよりも楽しみや希望のほうがはるかに大きいように感じました。

どうしてそんな心境になれるのだろう?
どうして不安な気持ちのほうが大きくないんだろう?

そんな疑問が、私の中で膨らみました。

大人にこそ必要な“聴き合う”コミュニケーション

自由な学校では、保護者の方が月に一度、定期的に集まって話し合う機会(ペアレンツグループ・フィーリンググループ/夜学)が持たれていました。

児童は参加せずに、保護者のみが参加する集まり。保護者の方は名札(手書きで呼ばれたい名前を各々書いているよう)を、首から下げて参加していました。

わが身を振り返ってみると、娘と同じクラスの保護者の方のニックネームは全く知らないので、とても不思議な感じがしました。一方で「〇〇ちゃん(くん)のお母さん」ではない呼び名を知ることは、“その人”の存在を認めるうえでとても大切な一歩だとも思いました。

フィーリンググループの中、二人一組になって手をつないで向かい合って、いっしょに立ち上がるというワークが行われていました。お互いに強く引っ張りすぎても立てない、片方だけが立とうとしても立てない。お互いが声を掛け合って、タイミングを揃えてエイっと立つ。そうすると、不思議なくらい軽やかに立てる。保護者同士が手をつないで、試行錯誤しながらも、お互いに息を合わせて、とても楽しそうに協力し合っていました。

一方で、夜学では、あるテーマに対して保護者同士の真剣な話し合いの場が生まれていました。親がたっぷり話を聴いてもらい、他の保護者の話をたっぷり聴く――なんて豊かな時間なんだろうと思いました。

私は、娘が入学して以来、同じクラスの保護者の方とこんなふうに話し合った機会は、残念ながら一度もありません。授業参観など行事のときに会って、挨拶をする程度にとどまります。PTAの役員を務めていたことで同じ活動をされている保護者の方とはより話すことはあっても、心の底から“たっぷりり聴き合う”とは距離がある感じです。

もしも、自由な学校のフィーリンググループや夜学のように、同じ学校に通う保護者さんたちと聴き合うことができたら、どんなにいいだろうと思いました。子どもの成長を見守りながら、日ごろ抱えている考えや想い・不安などをたっぷり聴けて、たっぷり話すことができたなら、どんなに心強いだろうと。

映画に出てきた6年生の保護者の方が不安よりも楽しみや希望を大きく持てているのも、そうした豊かな時間によって育まれた自信や信頼が根底にあるんじゃないかと思いました。

親も、親である前にひとりの人間(自分)であること。そして、大人もお互いのことを“聴き合う”ことで育まれるものがあることを、映画から教えてもらいました。

親が自分を認められるから、子どもの“そのまま”も認められる

上映後の映画のトークショーの際に、監督の齋藤千夏さんが質問に丁寧に答えてくださる中で、「お母さんは(私を)変えようとしなかった。『そのまま』にする。伸ばすことも、削ることもしなかった」というようなニュアンスのことをおっしゃっていたのが、とても心に残りました。

わが身を振り返って、私が親としてそれができているのか?と自問自答してみると、答えはNOだと思いました。

子どもができていないと(私が)思うところは伸ばそうとするし、そこまでしなくていいんじゃないの?と(私が)思うことは削ろうとしてしまう。

娘の“そのまま”をなかなか認めてあげられていないと反省しました。

でも、一方で私はどうして“そのまま”を認めずに、変えようとしてしまうんだろう?とも思いました。

そう考えたときに、私は、自分自身を“そのまま”認めてあげられていないんだということに気が付きました。

子どもを“そのまま”認めてあげるには、まず親が自分自身を“そのまま”認めてあげることが大切。

それはきっと自由の扱い方も同じで、自分が不自由な心や環境にいると、ほかの人にも同じような不自由さを強いてしまう。それは意識的にも、無意識的にも、誰しもがやってしまいがちなことなのではと思いました。

前述のフィーリンググループや夜学で、たっぷり聴いてもらうということは、親も自分自身をそのまま認める・他者もそのまま認めるということの、一翼を担っているんだと感じました。

③に続きます。

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