見出し画像

Հայոց երկիր 〜ハイの国の人々〜

「ハイ」という単語はどこからきたのだろうか。

今回は以前のアルメニア語の記事で「いつかやる」と書いた「ハイの国の人々」のお話をします。

多少のおさらいをします。コーカサスに私たちがアルメニアと呼んでいる国があります。ですが、アルメニアはアルメニア語で「ハヤスタン」と言います。「ハイ」というのが「アルメニア人」という意味です。

中東西アジア〜中央アジアには「〜スタン」という名前がつく国がたくさんありますが、アルメニアも言葉を変えてみると実は「〜スタン」の国の仲間なのですね。

ちなみにご近所で怨敵のトルコのトルコ語やアゼルバイジャンのアゼルバイジャン語では「エルメニスタン」のように呼ばれます。「エルメニ」がアルメニア人で、「〜スタン」が「ハヤスタン」と同じく「〜の土地、国」という意味となります。

しかし、この「ハイ」というのは一体どのような意味があるのでしょうか。ここでは当然ながら学術的に論証することは致しませんが、「このような説がある」、「このような伝説がある」とだけ述べるにします。

英雄ハイク説

一番よく知れ渡っている説はハイクと呼ばれる英雄にあやかったものです。

ハイクはもともと5世紀の歴史家ホレナチ(Khorenatsi)が残した『アルメニアの歴史』という本の中で登場する人物です。

この本は実際の歴史の記載もそうですが、日本の『日本書紀』のように古代の神話的な部分も含まれているような本のようで、その中で英雄ハイクはベルという王に反旗を翻した英雄とされています。そして、ベル王に勝ったハイクは新しい町を立てたり、勝利の記念にいろいろな土地に名前をつけます。

≪ハイクは戦さ場だった場所に村を築かれた。そして戦いの勝利を記念して、その村に御自身の御名前、ハイクを授けられました。そういったわけで、この地域は今日、ハヨツ・ゾルと呼ばれています。ベル王が勇敢な戦士たちとともに敗れ去った丘をゲレズマンコムとハイクは名付け、今ではゲレズマナクのように呼ばれています。ベル王の亡骸を薬で覆い、ハイクは遺体をハルクに運び、高くそびえた丘の上でベルの妻と息子たちの目の前で埋葬するよう命令しました。私たちの国は私たちの先祖の名前に従って、ハイクと呼ばれているのです≫(1)

画像1

金属の国ハヤシャ説

以下は言語学的かつ逆説的な主張になります。

Kitazumi(2009)の論文"Zum Problem der Gleichung heth Ḫayaša- = armen haykʿ "ではまず”hay"の語源研究の先人として、マルティロシヤン(Martirosyan)が提唱する語源を紹介しています。

マルティロシヤンの編纂した語源辞典では次のように説明しているとのことです。まずハヤシャ国という国に関係するヒッタイト語の文書があるとのことです。この国はアルメニア人の歴史的な居住地域出会った北西地域を含んでおり、この地域というのは黒海周辺のポントスに住んでいた、金属加工技術で有名だったハルベス人(Χάλυβες)の国と同一のものだとマルティロシヤンは書いています。

次の論説はまず古代コーカサスにアルメノハルベス人("gens Armenochalybes")という民族が住んでいた(3)という話が前提にあります。この民族は古代ローマの大プリニウスの『博物誌("Naturalis Historia")』に言及されています。

この論証により、マルティロシヤンはハルベス人=アルメニア人=アルメノハルベス人という結びつきがあることを成立させられると主張しています。そうして、「ハヤシャ」という名前も印欧祖語の「金属」を意味する「へオス("*h₂es-e/os-")」という名前と関連づけられると考えます。そして、この「へオス」から"hay,-oc"が音声的に導き出せる、というのがマルティロシヤンの考えのようです。

ちなみに"հայոց ("hayocʿ")"は現代語で、やや古めかしさのある「アルメニア人の」という形容詞のようです。

西の人ハティヨス説

ロシアの言語学者ディアコノフによれば、ウラルトゥの人々にとって帝国の西側に住む人々は全て「ヒッタイト人」だったという論を展開します。そのため、彼はもし将来アルメニア人となった古代の人々が西側に住んでいたとするならば、ウラルトゥの人々が彼らの言語も「ヒッタイト語」と呼ぶのは自然の流れだっただろうと主張します。

そこでウラルトゥの人々が古代アルメニア人となり、アルメニア人と呼ばれる人々とも民族的な融合が進んだことにより、「ヒッタイト」という名前も民族名として、この融合した民族に受け継がれたと考えました。ディアコノフによれば、アルメニア祖語でこの名前は"*hatiyos"のように発音されていたと考えます。ディアコノフはこれが古アルメニア語の音韻変化に従い、"hayo-"という単語に変化したと考えています(4)。

終わりに

伝説はロマンがあるけれども、語源学となると途端に堅苦しくなります。

しかし、どの説にも共通していえるのが確実な証拠がある説は何もないということです。民族主義や左翼的に考えて、自分の民族を美化しすぎるのもいけないと思いますが、学問的すぎて夢がないのもよろしくないと思います。

こんなときは気分を変えてコーカサスの山々にでも旅行に行きたいものですね。

#とは


参考

(1)МОВСЕС ХОРЕНАЦИ.
"ИСТОРИЯ АРМЕНИИ". 第11章「勝利とベル王の死について」
http://www.vehi.net/istoriya/armenia/khorenaci/01.html#_ftn83
(2)Kitazumi, Tomoki(2009). "Zum Problem der Gleichung heth Ḫayaša- = armen haykʿ " https://menadoc.bibliothek.uni-halle.de/dmg/periodical/titleinfo/6414799 PP.511
(3)Plinius Maior. "Naturalis Historia" https://la.wikisource.org/wiki/Naturalis_Historia/Liber_VI#VII Ⅳ-12
(4)Diakonoff, I.M. "The Pre-history of the Armenian People".  http://www.attalus.org/armenian/diakph11.htm "3.3. Name"




この記事が参加している募集

資料や書籍の購入費に使います。海外から取り寄せたりします。そしてそこから読者の皆さんが活用できる情報をアウトプットします!