野生の生きものは諦めない
「野生の生きものってなかなか諦めないよな......」そんなことを考えていたここ数日間、思ったことについてお話したいと思います。
野生と野性の違い
やせいには「野生」と「野性」の2つの意味や使い方が存在するとのことです。
「野生」は動植物が自然に育って生きていることや、人によって飼いならされたり栽培されたりしたものではないこと。
「野性」は自然または本能のままの性質、粗野な性質のことなど。
私が今回考えていた“やせい”は正直なところどちらにでも当てはまりそうなことなので、一応「野生」として考えます。
野生の動物って
本題ですがここ数日考えていたことについて。
「野生の生きものってなかなか諦めないよな......」と。
どういうことかというと、
野生の生きものって何でもできるまでずっとやっているのですよ。
動物の映像をよく観るのですが、例えばカルガモの子が自分の背丈よりも高い段差を登れるまでピョンピョンし続けたり、なんとか水の中に入ろうとずっと身体をしならせているアザラシなんかを見ました。
ところで
ところで私たちも、
小さい頃はできるまでなんでもずっとやっていませんでしたか?
私の記憶では、縄跳びの二重飛びができるまで夏休み中毎日家の前で飛んでいましたし、鉄棒で逆上がりができるまで学校帰りに練習していました。
できるまでやっているので、必然的にできるようになります。
それが大人になるにつれ、どこか結果を急かされるようになっている。
今日初めて聞いた物事でも、数時間後にはできていなければならない世界で生きている方が多いのではないかと思います。
そしてそんな世界で過ごしているうちに、
本当にやってみたいこと、チャレンジしてみたいことまで、自ら結果を急ぐようになってしまっている。その結果、すぐにはできなかったからと早くに諦めているような気がしたのです。
野生の本能があれば
人間界は複雑な「言葉」を操るので、他の動物に比べると行動が繊細になりがちであると思います。
飼われた犬や猫も「ここで〇〇をしてはいけない」という言葉から行動が制限され、人間界に合わせるようになってしまった結果、野生の本能がどんどん失われていきますよね。
人間は閉鎖的な空間で育つことで繊細になりすぎているのではないかと。
「できるまでなんでもずっとやる」というような、野生の本能というものをちょっとばかり思い出してみるべきなのではないか。
......そんなことを考えていたわけです。
縄跳びと鉄棒のくだりでバレていると思いますが、私は元々運動が得意ではないので、いずれも高校生の頃にはもうできなくなっていました。
もし今小さい子に「鉄棒教えて」と言われたら逃走します。
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