大人になる、宣言ゆるやかに。

あんまり意識してないのだけど今年41歳になって、本厄ということもあってとはいえそれほど本厄であることは気にしていないのだけど、というのも「本厄」であること自体、役割というか居方を与えられる感じがしてそれはそれで、今の自分に輪郭を与えてくれる感じがして悪い気はしないというか、ここで何かあんまりよくないことがあっても「本厄だから」と自分に言い聞かせられるし、何もなくても「本厄だけど」とほくほくできるし、本当に昔の人はうまいものを考え出したものだ、と思うんだけど。これまでいまいち飲み込めていないというか、ちゃんと飲み込めている人なんているのか分からないけど、年齢についてはずっと保留していて、ことあるごとに「年取ったなあ」と口ではいうけど実際に年を取るということがなんなのか、よくわからないでいる。

自分の事をおじさんと呼ぶこともできるし実際そういう年齢には違いないけど、そう呼ぶとしたらその時点が一番若いという時間の流れ方を考えると、その後はおじさんをひたすら積み重ねて行くだけでしかなくそれは一体誰に対するアピールなのかも分からなくなってしまうので、僕は自分の事を「おじさん」と自称しないようにしている。誰かにそう呼ばれるのは、「あの人にとってそう見えているのだなあ」と納得できるのでそれはそれでいい。けれど年齢については絶対的な尺度があるという設定にこの世の中ではなっているので、まあ自分はいま41歳で、日本社会の平均寿命が80歳だとすると、年齢で区切ると約半数が年下ということになる。高齢者社会ということを加味するともしかしたら6割〜7割が年下かも知れない。ひゅ〜、スリリングだぜえ。本当にいつの間に年取ってしまったんだ、という思いが飛び交っている。僕の中で。

素敵に年を重ねてっている人はたくさんいる。僕の周りにもたくさんいる。そういう人と比べると、自分はまだ情けないほど年齢について年上としての自覚がないと思う。年下としての自覚は捨てるほど持っている。個人的には演劇の現場などでの年上だとかそういうのは必要ないと思っていて、すくなくとも自分にとっては年齢は区切りでしかないというかグルーピングでしかないと思っているんだけど、最近というか、どうもそういうだけじゃなくて、それだけではいられないよね、という思いが胸の辺りを選挙していて、あ、選挙は7月21日にありますね、もちろん行くけど、、占拠していて、例えば年下の人と話をしていて、僕の方が同い年や年上の人に対する言葉と同じ接し方で接したとして、そういう自覚がなくても、使った言葉が年下の人にはハラスメントとして受け止められてしまうこともあるかもしれないというか。演劇の稽古なら、すくなくとも自分が演出する際は、ひとつの目標に辿り着ければアプローチは違っていいと思っているので、役者さんがそれぞれの意志と思いを持ってやってくれているなら、それに対して自分も台本に対する自分なりの解釈を話して、自分の解釈よりも素敵な読み取りをしていたりすることも多分にあるので、たくさん言葉のやりとりをして、双方納得するように作品を形作っていく。その際にも自分が決定権を持った人間であることに細心の注意を払いながら、強権的にならないように、稽古を進めている。つもり。僕が役者で参加するときも、そういう演出家とやれるときはしあわせだ。

演劇や映像作品では決定権を持っている人がかならずいるから、というかいなかったらそれは何から出てくる表現になるのかよくわからないけど、つまりは構造的に上下関係のようなものができやすいので、その構造にうっかり簡単に乗らないように、ちゃんと場を整備する必要があるし、特に決定権を持っている人間が注意深くいる必要がある。当然、家父長制のように、もしくは新人育成も兼ねて、ある程度のプレッシャーを与えて教育する現場もあるだろうし、個人的にはそういう現場があってもいいと思うし、未経験の人間や経験が浅い人間に対する稽古でのプレッシャーは、本番に対する大きなバネや自信になると思ったりもするので、当然やりすぎはよくないにしても、相手に対する愛情や敬意がちゃんと本人に伝わっているのなら引き締めることはあっていいと思う。そうではなくて、僕がいま書いているのはほろびてでやるときなど、キャストがかなりの経験者だったり、いくつも現場を踏んできている人間に対する、というものであることは理解してもらいたいのだけど、つまり、「決定する人」と「披露する人」といった役割がはっきりしているときは、あらかじめある上下関係をなめして横並びにする“意識”が必要なんだけど、だけども、ここで年齢の話にスライドするけど、年齢ってやっかいで、僕みたいに自覚がないまま、寝て起きてを繰り返してたら41歳になってました〜、中身は子ども〜、みたいな、僕みたいな人間からすると、年下の人にもあんまり「おら〜、年下よお〜」とか思わなくて、すごい人なら「すごいなあ」と思うし、つまりは年齢を気にしなければ、タメと変わらない感じで接してしまうということで、だけどここがトラップで、勝手に自分が陥っちゃうトラップで、それって相手は関係ないわけ。僕がいくら「たのしいなあ」と思っていても、相手は「おじさんが、たのしそうにしている、こわい」と感じているかも知れない。感じているかも知れないって、やっとね、やっと最近気づきはじめたわけで、遅いのかもしれないけどまあ、気づけてよかったねって感じ。これまでもたぶんいろんな人に迷惑かけてきたと思うけど、これ以上、無用な迷惑はかけないですむかもしれない。無意識のマウンティングっていうのかしらね。自覚してない分、相手からするとやっぱり怖いわよね。だって、相手からしたら、たのしく話していても相手の逆鱗に触れたりして怒らせてしまったら、立場は対等ではないから、謝るしかないし、とか思うかもしれないし。こっちが全然そう思っていなくて、もし怒っても、相手(年下)も怒り返せばいいじゃんとかこっちは思っていたりしていたとしても、相手からしたら、それは無理って思う人だってたくさんいるだろうし。会社勤めの人とかはまた違うかもしれないし、最低限の「礼」は保った上での。

という。リリー・フランキーさんは僕が認識したときからずっと素敵で素敵な年上だなあとか、身近だと「ハル」で共演した栗原英雄さんも素敵だなあとか。ああいう大人になりたい、ってそういうのはけっこう昔からあったり思ったりしているのだけど、それ以上に、自分が年下の人たちと接するときに、もっと自覚を持って年上然とした方が、いいなって思ったわけで、っていうのも、ほんとつい先日、というか一昨日、THA BLUE HERBの新譜が出ているのを知って、買って、ってして、ザ・ブルーハーブっていうのは札幌出身のヒップホップグループで、僕はかれこれ10年くらい?もっとかな?好きで、ILL-BOSSTINO(イル・ボスティーノ)というMCがひとりでライムするんだけど、掠れたしゃがれた声が、トラックメイカーのO.N.Oの繰り出すトラックに乗っているのを初めて聞いたときの衝撃がわすれられないし、BOSSが語る言葉の数々に僕はずいぶん助けられてきたし、っていう、そういう僕にとって大切なアーティストはもちろんたくさんいて、そういう大切なアーティストのひとつで、TBHと略すんだけど、BOSSのリリックはとてもコンテンポラリーで、BOSSの“いま”の立ち位置から言葉を紡いでいて、新譜を聞いたときというか、いままさに書きながら聞いているんだけど、BOSSの言葉が47歳という立場から放たれていて、それは47歳という年齢に対する言い訳のない言葉たちだった。アルバムのタイトルは『THA BLUE HERB』、セルフタイトルで2枚組の大ボリューム、リリックはキレッキレで、言葉がめちゃくちゃ入ってくる。そんなBOSSのライムが前からボンヤリ考えていた自分の中にサクッとハマって、そうだよなあ、自分の年齢に少なくともふさわしい内面を持っていることは悪いことじゃないし、必要な事かもなあと思って、僕の存在全体の年齢感を引き上げようとは全然思わないけど、そういう一面をちゃんと持っていようと思ったっていうか、ある程度は「41歳」という自分の年齢を誇れるようになろうと思ったというか。

演劇界やライター業界でも、どんどん新しい若いすごくおもしろい世代は出てきているし、年齢で区別されたり、もう同じラインに立てないことも出てきて、それは20代の人からしたら当然「うちらに譲れよ」と思っていると思うし、僕も学生の頃に書いたお芝居で、「老人はさっさとくたばって若い人に居場所を譲ってくれ」っていう感じのセリフを、あくまでもセリフですよ、を書いたし、その公演のタイトルは『ノーヤングガーデン』って、そういう感じだったから、上の世代のことを考えている余裕なんてなかったけど、今も同じで、下の世代のことを考える余裕というか、譲ってやれる席に僕は座ってもいないので、まずはその席を見つけたいと思っているんだけど、座れる席がないから、割と必死で座れる席を探していて、もちろん一緒にやれるなら一緒にやれる人たちと一緒に進んでいけたらいいなと思っているし、そんな感じで、やっぱり若い人たちと対等でありたいと思う部分と、本質的な部分、年齢的な部分では隔たってしまっているというところが同居しているので、いったん、自分の年齢はちゃんと自覚していこうかなって、そんな風に思った次第。他の人はどうあれ。

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