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関東大震災とレイシズム


関東大震災とレイシズム  国家とハチ公


2023年10月28日に自主ゼミのために調べ、簡単にまとめたものをnoteに公開します。
 箇条書きのようになっていますが、関東大震災とレイシズムについて注視したものです。
 関心があればぜひ更に詳しく調べてみてください。


はじめに


     今回、関東大震災とレイシズムについて簡単に調べてきました。あまりまとめる時間がなかったので、説明が不足しているかもしれませんが、ご了承願います。
     まず、私が関心を持った経緯をお話すると、中学校時代に遡ります。そのころ私は外国というものに関して全くの無知でした。アメリカの場所すらわからないほどの学生でした。
 ある日、学校帰りに友人が言った一言に関心します。「僕は中国や韓国が嫌いだ。」友人はそう言ったのです。当時の私は、国という概念があまり理解できず、どの国がどんな国であり文化はどんなものかわからない、知識がない人間でした。なので、友人の言葉は、外国について見識のあるとてもスマートな人の言葉に思えました。その言葉を聞いた瞬間、中学生の私は嫌韓・嫌中の感情が一気に芽生えたように感じました。今でもその感覚を覚えていますが、実際には非常に危険なものであったと思います。先天的に差別意識を持って生まれてくる人はいません。生きていくなかで、様々な環境から影響を受け、価値観を形成していくものです。
 私は関東大震災とその中で起きた朝鮮人虐殺の歴史を知り、自分の過去と関連づけ、他人事の問題ではないと思いました。今回、これをきっかけに積極的に調べてみようと学習を進めました。

関東大震災とは

     関東大震災とは大正12年(1923年)9月1日11時58分に、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9と推定される巨大地震をはじめとした火災や津波などの大規模震災のことを指す。
 今年、2023年は関東大震災からちょうど100年にあたる年なので様々な企画が行われた。


     関東大震災死者数 約​​​​70,387名
 明確ではないが、中央防災会議の報告書によると震災死者のうち1〜9%が災害ではなく殺された・虐殺された人数とされている。1000〜6000人以上、もしかすると万単位ではないかと予想される。

デマを信じる日本人

 「朝鮮人が火をつけた、井戸に毒を入れた」
 意図的か自然発生的かわからないが、朝鮮人への偏見が生まれる。
多くの証言者は、警察も言っていたから(このデマを)信じた、と言っている。
 多くの日本人が、朝鮮人は危ない、非合理的で良くわからない奴らだと考えていて、殺したことを自慢げに話す日本人もいた。
 褒められる行為だと認識→軍国主義による人種差別。敵国の人間は殺しても構わないという考え方だった。
 この虐殺について政府は調査をせず、ちゃんとした責任を取ったとはいえない。日本帝国は責任を曖昧にして処理したという事実があり、反省がなかったという点が問題視される。


朝鮮人青年姜大興(カン・デ フン)

 震災直後の1923年9月4日午前3時頃、 埼玉県北足立郡片柳村染谷2(旧大宮市、 現さい たま市見沼区染谷)に迷い込み、 地元の自警団と遭遇した一人の朝鮮人青年姜大興(カン・デ フン、 当時 24歳)が5人の自警団員によって虐殺されている。犠牲となった姜大興は、少なくとも溝や畑で2回転倒しながら、抵抗することなくひたす ら逃げたのだが、少なくとも5人の男たちに追い回され、槍や日本刀で胸、左肩 前頭部、 右腕、臂、 後頭部を執拗に突き刺され、斬り付けられて重傷を負い、死に至っている。 まさ に “虐殺” という表現が相応しい殺害の態様であったといえよう。 何の落ち度もない青年が、 朝鮮人であるというだけで 「不逞鮮人の来襲」 との嫌疑をかけられ、全身を刺され、 斬られ て殺されるという、誠に理不尽かつ残忍な事件であった。
埼玉における朝鮮人虐殺事件の特徴は、この事件のように自警団員が虐殺を実行している点にある。 熊谷、 神保原、 本庄での事件では、一般の民衆も加わっているが、 中心になっ ていたのは自警団員である。 東京、 千葉、 神奈川では軍隊と警察が直接的に虐殺行為に関与 しているが、 埼玉ではないとされている。
片柳村染谷のこの事件は、 犠牲者の氏名が分かり、 墓があり、 殺害時の状況もある程度判 明している稀有な例である。 日本人民衆によって組織された自警団による関東大震災時の 朝鮮人虐殺事件を具体的に思い浮かべ、向き合うことができる事件である。


      日本近代史研究者鈴木淳は「不逞鮮人(ふていせんじん)」 に関する 「噂」 は被災地各所から発生したに違いないと自然発生説 をとり、民衆が殺害という行動を取ったことについて 「噂で警戒することと、朝鮮人と見れ ば見境なく暴行し、 あるいは殺害するという行動との間には距離がある」 とする。 「噂」 を 信ずる土壌として 「朝鮮人に対する無理解と差別意識」 を指摘し、 それを殺害へと 「飛躍」 させた要因として「震災後の興奮や持って行き場のない怒り、 そして目立つような勇ましい 行動を取りたい意欲」 などの人々の意識をあげている。 警察と軍隊による朝鮮人虐殺についても、警察や軍隊がこの「噂」 を 「信じて行動」したことによるとし、このことがさらに「噂 の信憑性を高め、 また過激な行動を誘発した」としている。
日本民衆は「国家に操られた被害者」というのは間違いであり、暴力行使における民衆の主体性に目を凝らす。


内鮮融和運動

 明治時代から第二次世界大戦中にかけての日本における被差別部落の地位向上、環境改善のための運動。
 日本帝国は日本人と朝鮮人は仲良くすべきだという宣伝を繰り返した。しかし、朝鮮人には一層の抑圧となった。
 日本の統治を喜んで受け入れる朝鮮人は素晴らしい、異質な民族、朝鮮人を取り込む日本は偉いという話が宣伝された。
    民族意識のある朝鮮人は排除された。
 日本に暮らす朝鮮人は精神的圧迫を感じて生きている。
 これらのことを当時の日本人は徹底的に支持し、反対意見は排除された。そんな時期に関東大震災は起こった。

     震災の虐殺は1923年の9月で終わりというわけではない。
 虐殺の恐怖に怯えていた人たちがいる、それは世代を超えて継承されている。近年ではヘイトスピーチが問題となっている。
 京都の宇治市の朝鮮人住宅地域でその歴史を記録する記念館を作ろうという運動のなかその場所で放火事件が起こる。犯人は在日朝鮮人に反感を持っており犯行に及んだとのこと。差別は日本に根深く残っていて、植民地主義の歴史を否定し隠蔽したり肯定したりしている。そのような問題は現代の課題となっている。


高校日本史教科書、 山川出版 社 『詳説日本史B』 改訂版 (2016年検定)

関東大震災の混乱
 〔前段で震災の被害について記述した後〕 関東大震災後におきた朝鮮人 中国人殺傷 事件は、 自然災害が人為的な殺傷行為を大規模に誘発した例として日本の災害史上、 ほ かに類をみないものであった。 流言により多くの朝鮮人が殺傷された背景としては、日 本の植民地支配に対する抵抗運動への恐怖心と、 民族的な差別意識があったとみられる。 さらに9月4日夜、 亀戸警察署構内で警備に当たっていた軍隊によって社会主義者 10 人が殺害され、16日には憲兵により大杉栄と伊藤野枝、 大杉の甥が殺害された。 市民・ 警察軍がともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使したことがわかる。 (331 頁)
この教科書は流言の発生源やなぜ「殺傷」という行為にまで及んだのかについては言及せ ずに、 朝鮮人虐殺の背景として 「植民地支配に対する抵抗運動への恐怖心と民族的な差別意識」 を挙げている。 自警団という語を使わずに 「市民」と表現し、朝鮮人に対する日本の「市民」 の 「恐怖心」 と 「差別意識」、 つまり日本人の 「心」 と 「意識」 を取り上げて、 虐殺事件を引き起こした原因であるとしているのである。 確かに数千人の朝鮮人を虐殺したのは軍隊、警察と自警団に組織された日本人民衆であり、その日本人の過った意識に目を向けて反省することは重要なことである。 しかし、この 「恐怖心」 や 「差別意識」 は一人ひとりの日本人が成長するなかで、 歴史的社会的に形成さ れたものであり、その構造を明らかにしてこそ歴史的な教訓を導き出すことができるのだ ろう。この歴史的社会的な構造の核になっていたのは、この教科書の記述の中にもある「植民地支配」 である。 帝国日本の植民地支配及び国内支配と朝鮮人虐殺事件の関係を見ていか なければ、 「朝鮮人差別は止めましょう」 といった 「道徳」 の育成に終始しかねない。
→市民が勝手にやったということではなく、国家として責任を追求するべきである


国際シンポジウム「関東大震災の朝鮮人虐殺から100年 レイシズムと歴史否定を考える:国連特別報告者を迎えて」(2023年8月11日 東京大学)
     ドゥドゥ・ディエンさん

 差別と差別の文化的根元に迫るような知的戦略が必要。まず最初の問題は、多様性とアイデンティティ。差別的な文化や行動の文化や行動の根底には2つのやや難しい概念がある。多様性という概念はグローバリゼーションが引き起こす文化的標準化のリスクと文化的民族的地域社会的なアイデンティティへの排斥的な中性といった極端な形の人間的反動の両方に対する答えを提供するものと見なされるようになっています。しかし多様性にはイデオロギー的、歴史的な異名が含まれています。概念的には、多様性とは社会的文化的民族的宗教的な現実や状況の否定できない事実です。多様性はこれ自体が倫理的な価値とは言えない。この概念には18世紀から19世紀にかけての哲学的科学的思考が色濃く反映されています。これらの理論は人種的宗教的差別を発展させるだけでなく奴隷貿易のような搾取や支配の形態を正当化するための知的枠組みとして、イデオロギーや哲学を支えるものだった。多様性とアイデンティティはイデオロギーに利用されて悪用されてきた。まさに民族中心主義の根底にあるのは、この多様性の悪用です。民族中心主義と多様性は、相反するものでも逆説的なものでもない。むしろ、補完的でグローバル主義が標準化を促進する力として認識されている現在の状況では、多様性を差異として解釈することは単に歴史的な現象にはとどまらない。現在の民族紛争や移民排斥勘定の根底にあるアイデンティティを呼び起こす防衛反応を強化しかねない要因です。多様性の促進はそれ自体で差別を悪化させる要因。

 コリアンへの差別は植民地主義が支えている。人種、とは差別を正当化するための道具である。
 植民地支配=制度的レイシズム

ヘレン・ミルロイ医師

 「私たち民族を貫く虐殺の歴史。虐殺とは人種を意図的に絶滅させることだ。私たちを地球から永久に排除しようとする行為。これは世代間トラウマの概念とは大きく異なる。心理的、身体的、精神的、文化的に、より規模の大きなトラウマだ。また別のレベルのトラウマといってもいい。」


朝鮮人虐殺の追悼文、今年も送らず 小池都知事、関東大震災の式典で

 9月1日で100年となる関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼式典に、小池百合子東京都知事が今年も追悼文を送らない方針であることが分かった。就任翌年の2017年から7年連続となる。式典主催者は先月、追悼文の送付を求める要請をしていた。式典は例年、9月1日午前に都慰霊堂がある横網町公園(墨田区)で開催。震災でデマを信じた住民らに虐殺された朝鮮人らを追悼している。歴代都知事は追悼文を送っていたが、小池知事は「犠牲となったすべての方々に哀悼の意を表しており、個々の行事への送付は控える」として同式典に追悼文を送らなくなった。
 都によると、14日に式典主催者に、送付を再開しないと文書で伝えたという。式典実行委員長で、日朝協会東京都連合会の宮川泰彦会長は「悲惨な虐殺の歴史を受け入れない、認めないという姿勢の表れではないか」と批判した。
引用 https://www.asahi.com/sp/articles/ASR8K5600R8KOXIE01J.html


 日本の侵略と植民地支配の忘却状況について、 歴史学者山田朗(やまだあきら)は 「「戦争の記憶の風化」 が叫ばれ ことはあっても、 「植民地支配の記憶の風化」 はすでに語られることすらなくなっている」 と述べている。

ダーバン会議-反人種主義・差別撤廃世界会議

ダーバン宣言
https://www.hurights.or.jp/archives/durban2001/durban.html


福田村事件

 福田村事件(ふくだむらじけん)は、1923年(大正12年)9月6日、関東大震災後の混乱および流言蜚語が生み出した社会不安の中で、香川県からの薬の行商団(配置薬販売業者)15名が千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀で地元の福田村および田中村(現柏市)それぞれの自警団に暴行され、9名が殺害された事件である。1923年(大正12年)3月に香川県を出発していた売薬(当時の「征露丸」や頭痛薬、風邪薬など)行商団15人は、関西から各地を巡って群馬を経て8月に千葉に入っていた。
 9月1日の関東大震災直後、4日には千葉県にも緊急勅令によって戒厳令の一部規定が適用され、同時に官民一体となって朝鮮人などを取り締まるために自警団が組織・強化され、村中を警戒していた。『柏市史』によれば「自警団を組織して警戒していた福田村を、男女15人の集団が通過しようとした。自警団の人々は彼らを止めて種々尋ねるがはっきりせず、警察署に連絡する。「ことあらばと待ち構えていたとしか考えられない」という状況だった。
 生き残った被害者の証言によると、関東大震災発生から5日後の1923年(大正12年)9月6日の昼ごろ、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川沿いで、「15円50銭」などと言わせ、休憩していた行商団のまわりを興奮状態の自警団200人ぐらいが囲んで「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」などと次々と言葉を浴びせていた。福田村村長らが「日本人ではないか」と言っても群衆は聞かず、なかなか収まらないので駐在所の巡査が本署に問い合わせに行った。この直後に惨劇が起こり、現場にいた旧福田村住人の証言によれば「もう大混乱で誰が犯行に及んだかは分からない。メチャメチャな状態であった」。生き残った行商団員の手記によれば「棒やとび口を頭へぶち込んだ」「銃声が2発聞こえ」「バンザイの声が上がりました」。駐在の巡査が本署の部長と共に戻って事態を止めた時には、すでに15人中、子ども3人を含めて9名の命が絶たれており、その遺体は利根川に流されてしまい遺骨も残っていない。かけつけた本署(松戸警察署野田分署)の警察部長が、鉄の針金や太縄で縛られていた行商団員や川に投げ込まれていた行商団員を「殺すことはならん」「わしが保証するからまかせてくれ」と説得したことで、かろうじて6人の行商団員が生き残った。


当時の証言
 筑摩書房 証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人 / 西崎 雅夫 著
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480435361/


飯山由貴さん 映像作品《In-Mates》(2021年)

  アーティスト・飯山由貴の映像作品《In-Mates》が、東京都人権部によって上映禁止となった。​​​​​​
本作は、戦前に都内の私立精神病院に入院していた2人の朝鮮人患者の診療日誌のことばをモチーフに、ラッパー・詩人のFUNIの声と身体を映像化したものである。​​​​​​
 都は「関東大震災時の朝鮮人虐殺」を歴史的事実とすることへの懸念などを理由に上映を禁止した。​​
これは現代の検閲権力が、在日コリアンの経験の歴史と現在を作品として形にすることにまで及んでいることを示す、深刻な事態である。
 東京都人権部による飯山由貴《In-Mates》上映不許可事件は、何を問うのーYahoo!ニュース
 https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/537c040ca16e41feb75fdf406f4c5673872b7e24 
美術評論家連盟が飯山由貴作品の上映不許可に対する意見書を都人権啓発センターと都知事に送付ー美術手帖
  https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/26934



  

参考


国際シンポジウム「関東大震災の朝鮮人虐殺から100年 レイシズムと歴史否定を考える:国連特別報告者を迎えて」(2023年8月11日 東京大学) https://youtu.be/1Bdwxw8Ugm8?si=jC5P97YxEnH2RyJP @YouTubeより

博士論文、関原正裕「関東大震災時の朝鮮人虐殺における国家と地域ー日本人の民衆の加害責任を見すえてー」
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/72500/soc020202100703.pdf

筑摩書房 虐殺のスイッチ ─一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか? / 森 達也 著 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480438812/

青土社 ||現代思想:現代思想2023年9月臨時増刊号 総特集=関東大震災100年
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3827

筑摩書房 証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人 / 西崎 雅夫 著
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480435361/






最後

ハチ公と関東大震災

 ハチ公も生誕100周年だ。関東大震災により甚大な被害を受けた生存者は肉体的にも精神的にもその傷を重く抱えていたということは容易に想像がつく。当時、そんな人たちにとってペットを飼い始めることは1つの心の拠り所になったそうだ。秋田県のハチ公は秋田で生まれたのだが、被災者の上野英三郎に引き取られ東京にきた。ハチ公の物語もまた関東大震災により始まったのだった。
 現在の渋谷駅にいるハチ公の像は実は2代目にあたる。
1代目のハチ公は現在の東京藝大出身である安藤照(てる)さんが製作した。しかし、太平洋戦争末期に金属不足のために隠していたハチ公像が政府により奪われ溶かされてしまったそうだ。1代目ハチ公は現在どこかの鉄道レールの一部になっているらしい。
 2代目ハチ公はGHQの命令により​​​​安藤照さんの息子である士さんにより作られた。2代目ハチ公は戦争プロパガンダと深く関係がある。もちろん2代目ハチ公を作るにあたっても日本には金属が不足していたため、士さんは父の照さんの残した裸婦像を溶かしてハチ公を制作したらしい。
https://hachi100.visitakita.com/top/  



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