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美の思索


昔から不思議に思っていることがある。

それは


人は何故
美しいものをみて
美しいと感じるのだろうか

ということ。

美しさとは一体何なのだろうか



美しいの基準は人によって異なる。

ある人が美しいと思うものでも
別の人にとっては全くそうではないこともある。


それらは時代によって変化するものかもしれないが、
黄金比にも代表されるように
多くの人が共通して美しいと思うものは
有形無形に関わらず確かに存在しているように感じられる。



美しいの中には何があるのだろうか


私たちは美しさの中に何をみているのだろうか



美には人間にとって根源的な "何か" があるのではないか
その得体の知れない なにかは、追いかけてその片鱗を掴もうとすれども瞬く間に自分もろとも美の中へと融けていってしまう。

そして中和された内側からは決してその輪郭を掴むことはできない。



昔から腑に落ちなかったのが、神話や古くからの言い伝えなどで男性神や高次の存在がことごとく美しい女神や人間の娘に心を奪われるという話。

そもそも神や高次存在は物質的な存在ではなく、見た目を好きに変えることなど造作もないのだから、物質的な姿かたちなど何の意味もない。

にも関わらず、神々は美しい娘を選ぶ。

美しい娘はこころも美しいのだと言いたいところだが、ならばとびきりこころの美しい醜女しこめ を選ぶ話があってもよさそうなものだがそんな話は聞いたことがなく、磐長姫に至っては見た目を理由に瓊瓊杵尊ににぎのみこと に実家に帰されてしまうのだからちょっと笑えない。


こうした話はもともと天からもたらされたものが時代と共に人間界に親しみやすい形にカスタマイズされてきた面もあるのだろうし、そもそも神と崇めていた存在が本当に神であったのかという疑問などもありはするものの、そのひとつひとつの言葉に深い宇宙真理が示されているのが神話であると信じる自分にとって、こういった神話を”よくある話”と人間界と同じ目線で語るのは腑に落ちない。


美しさを感じることは人間という生物を存続させていく上で本能的にもたらされた感覚でもあるのかも知れない。
実際、濁ってよどんだ汚い水よりも美しいと感じる清流を飲むほうが安全である確率が高く、腐った果実よりも瑞々しく栄養価の高い果実を美しく感じる。
例外もあるが、概ね人は自分に害がなく安全なものをより美しく感じやすいというのはあるように思う。

ところで、以前にちょっと興味深い記事をみかけた。


この記事によると米国テキサスクリスチャン大学で行われた研究によって顔の魅力が高い人は血液中の細菌に対する免疫力が高いことが判明したのだそう。

また、魅力と免疫力の関係には男女で性差があり、魅力的な顔を持つ男性はウイルスと戦うナチュラルキラー細胞の働きが強く、魅力的な顔の女性の血漿は細菌の増殖を食い止める能力が高いことが示されたのだそう。


この研究からすると魅力的な人、つまり多くの人が美しいと感じる人ほど免疫力が高く備わっており、美には生存に対する本能のようなものが関わっていると言えることになる。
魅力的な男性には主に攻撃に関する免疫に強さがみられ、魅力的な女性には主に防御に関する免疫に強さがみられたというのも面白い。

そうなると例えば自分の免疫に高い防御力を求める男性はそれを獲得しようと無意識により美しい女性を求め、自分の免疫に攻撃力を必要とする女性であればそれを補おうとより美しい男性を求めるといったこともあり得るのかも知れない。

異性に対する美というのは肉体を存続させていくという本能が強い人ほど、より相手に美しさを求めるという傾向があるとしたら、、
そんな風にイケメン・イケジョ好きなどをみてみるのもまた面白い。


だがここで、「美とは人間が存続していくために備わった機能なのだ」と肉体よろしく美について回答するのには違和感がある。


科学が導き出した答えが「答え」であるというのが当然の相互了解となっている今の社会では、これがとりあえずとしても答えであるとして受け入れることにもさして違和感がないのかも知れない。

科学的な裏付けのある答えというのは世界中の人々の間で共有される間違いのない答えであり、それは唯一の安心できる答えである。そもそも科学が出した答えを答えとすることにしているのだから当たり前である。

科学の答えは人を安心させる。
しかしその "安心さ" から、さもそれで答えを得たかのような錯覚をしてしまうことがよくある。


安心できる答えというのはそれ以上自分に考える余地を与えない答えであり、人は数値化できる答えに辿りついた時にほっと安堵する。何故ならそれは存在者としての世界の内にあり、自分の中の「存在」というものを脅かすおびやかすことのないものだからだ。


しかし私が求めている答えはそうした安心さの中にはなく、寧ろ求めること自体に底知れない不安を感じるものであり、その不安の漆黒の闇の中に自ら独り分け入ってゆくことでしか得られないもののように思う。


雄大な自然に吞み込まれそうになるとき、息をのむような細やかで繊細な造詣に魅入るとき、ダンサーの身体から溢れ出るしなやかな脈動にうっとりとする時、弓を射る射手の横顔にはっとするとき、朝露の中に輝く虹が映る時、誰かの言葉に魂が震えるとき


美しさは瞬間にある

瞬間でありながら同時に永遠を放つ


芸術というのは一瞬がその人の永遠と出逢った時に生まれるもので、私たちは作品というフィルターを通してその永遠性の中で互いにそれを共有している。

そして圧倒的な美しさの前で私たちは文字通り 息を呑む。

私たちがこの時呑み込み、また呑み込まれているのは息ではなく「生(いき)」なのではないか。


吐く息によって現象化を起こし
吸う息によって霊化する

吐く息と吸う息の狭間の永遠
その永遠の中に美は潜んでいる
そんな予感がある

それは存在の故郷であり

故に私たちは呼吸が止まるその時
永遠の中へと還るのだ


美は存在が霊的流動によって析出させる
宇宙の芸術的な表現であり
フィシスの面影


だからこそ私たちは美の中に宿るフィシスを求め、美に惹きつけられる。

美という字は大きな羊であり
神の子羊とはイエスのことを指す。


美は永遠の世界からフィシスの呼び声を届けるために私たちに遣わされた使者のようなものであり




私たちが美の中にみているのは
本当の自分自身の姿なのかもしれない




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