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イザナギ、イザナミの読み解き

イザナギとイザナミについて感じたこと。

個人的な読み解きですので真偽は関係なく、ただ感じたことをメモとして記しておきます。


イザナギは「凪」であり、

凪は風が止まり波のなくなった状態、


つまり粒子性を表す。


イザナミは波であり、


波動性を表す。



量子の世界では電子などあらゆるものが波と粒子の二面性を持っています。




私達が普段暮らしている世界の感覚では想像するのが難しいのですが、
量子の世界では電子などのミクロな物質や光は波のような性質と粒のような性質を併せ持つという基本原理があります。

ミクロな粒子は『ある時は粒のように振る舞い、ある時は波のように振る舞うが、単純な粒子でも波でもない』そういった不思議な存在です。

波は観測する事によって一点に縮み粒子としての姿を現すというとても面白い性質があるのですが、私達が普段生活しているマクロな世界での物理法則がまるで通じない、それが量子の世界です。

イザナギの粒子性、イザナミの波性というのはこうした世界の根本的な原理を表しているように思えます。




国生みの場面では於能凝呂島 おのごろじまに降り立ったイザナギとイザナミは天の御柱の周りを廻ります。

その際にイザナギはイザナミに対して「汝は右より廻り逢え、我は左より廻り逢はむ。」と述べ、イザナギは左側から、イザナミは右側から柱を廻り、再び出逢います。



これは何を表しているのでしょうか?



この時の様子を上から見るとこんな感じです。

柱の左側を廻ったイザナギは時計回り(右回転)、右側を廻ったイザナミは半時計回り(左回転)をしている事が分かりますね。


カタカムナでは電氣は右回り、磁氣は左回りです。

また電氣は男性性と関わっており、磁氣は女性性と関わりがあります。



ですからこの場面は電氣である男性のイザナギが左側から右回りに柱を廻り、女性であるイザナミは右側から左廻りに柱を廻らなくてはならない訳です。


柱を廻って再び二神が出逢うとイザナミからイザナギへ先に声を掛け言葉を交わすのですが、
それぞれが言い終わった後で、イザナギはイザナミに対し、「女人をみな先に言へるは良からず。」つまり女性から先に声を掛けるのは良くないですよと言っています。


その後まぐあいを交わした二神からは手足のないヒルのような子、水蛭子ヒルコが生まれてしまいます。


次に生まれた淡島も泡のような不完全な島であったため、
二神は高天原に戻り、この事を天つ神に相談します。

すると天つ神の太占の占いによってイザナミが先に声を掛けたのが原因であった事が分かります。

そこで二神は再び御柱の周りを廻り、今度はイザナギからイザナミに声を掛け、その後無事に国々が生まれていきます。


何故、イザナミから声をかけたのが良くなかったのでしょうか?


物理法則として、電氣があるところに磁氣がやってきます。

そして電氣と磁氣が重なり合う事で回転エネルギーが生まれます。

この回転は生命の始まりのようなものでもあります。



電氣が先なのです。


つまりここで先に声をかけなくてはならないのはイザナギのほうであったという事になります。




水蛭子や淡島が生まれてしまったのは本来の自然の生命原理に反した結果、生命が健やかに誕生しなかった、ということではないでしょうか。

そして本来の電氣→磁氣の順番に正したところ、次々と健やかに国々が生まれたのだと思われます。

つまりこの場面は生命が生まれてくるミクロの原理を分かりやすい形で示しているように思います。

古代の人々は万物の仕組みが今のような科学技術がなくともよく分かっていたのではないかという氣がしますね。寧ろ今よりかなり進んでいたのではないでしょうか。


古くから伝わる神話のようなものには登場する”もの”であったり一音一音、ひとつひとつの動作などに深い意味が暗示されています。



こういったものは読み手によって様々な方面から幾重もの読み解きが出来るものなのだと思います。



そしてそのどれもが矛盾なくフラクタルに一つの方向へと繋がっていく。





そういったところが、とても宇宙的だなあ、という氣がします。





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