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水の泡

こんばんは。

本日も読んでいただきありがとうございます。

日本人は儚いものを美しいと思う感性を持っています。

例えば桜です。桜は美しいですね。しかしそれはいつか散ってしまうという「儚さ」を持っているからだと思います。花火もそうです。大きく空に広がって消えてゆく。大きな音と眩しい光の後に静けさと暗闇が襲いかかってきます。人生もそうです。人の死を描いたドラマに感動する人も多いでしょう。人間の寿命が永遠であればこのような物語は成立しませんね。

僕も儚いものを美しいと感じます。時には涙することもあります。

しかし思ったのです。泡はどうだ?と。

努力が水の泡だ。

そんな言い回しを聞いたことありますよね。

泡はできてから消えるまでの時間がすごく短いです。きっと儚いはずなんです。ではなぜ「儚い」はずの泡が、「努力が無駄になった」という意味で使われているのでしょうか。それが不思議でなりませんので考えてみたいと思います。

人生は長いです。その過程でさまざまな思い出を作ります。それが儚さを孕んでいると思います。だから美しい。

桜は一年に一度しか咲きません。そして咲いている期間はたかだか1週間ほどです。一年かけて咲いたのにすぐ散ってしまうことが「儚い」のでしょう。

花火も夏にしか見ません。次見れるのが一年後だから「儚い」のでしょう。

では泡はどうでしょうか。泡は今すぐに作れます。それが消えてしまってもすぐ次の泡を作れます。だから「儚さ」の方が薄れているのではないでしょうか。

つまり泡は希少価値が低いのです。人々は泡に慣れてしまっている。つまり人は慣れると感情が鈍くなるのです。泡が一年に一度しか見られないものだったならば、「努力が水の泡」などという言葉は生まれなかったのではないでしょうか。

なので、いい意味で泡も使ってあげませんか?

努力が水の泡になった。けれどまたすぐ努力すれば泡を作れる。

こんな考え方はどうでしょうか。

日本が今よりポジティブに、そして泡が今よりみんなに愛されるものになればいいなと思います。

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