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中庭のチムニー

 区切られた窓の外に女が三人通った。1人は犬を散歩し、1人は自転車で、一人は音楽を聴きながら、通っていった。私は胃が痛い。カフェでコーヒーを飲むのを諦めて、ソイラテを頼んだら案外高くなって少し嫌な気分になった。
 目の前を横切った女が持っていたトートバッグをみて、ああそれ私も欲しかったのを思い出し、スマホで検索しようと電源をたちあげたら、男の先輩から連絡が来ていたのに気づいた。「大丈夫なん?」ときていたので、非表示にしたら、何をしようとしていたのか忘れて、また窓の外を眺めていた。女が自転車で通ったら、自販機の灯りがついた。今は午前10時42分、自販機の明かりも寝ぼけているみたいにぼんやりともった。

 せっかく体調が悪くて休んで、病院に行ったのに、大した病名を与えられず、テキトーな薬を渡されたので、暇を持て余している。昨日は怠くて病院に行こうとしたら予約が取れず、今日になったというのに、今日はほとんど悪いところがない。にもかかわらず休んでしまったから思いっきり休みたいのと、体調が悪くて休んでいるのとの狭間で、辺な罪悪感と不自由さを抱えている。胃炎なので、大好きなカツカレーも食べることができないし、なまものもダメだし、うどんしか食べないようにと言われた。じゃあほとんど何も楽しみなことはない。コーヒーも飲めない。食以外にしたいこともない。眠くもない。
 タリーズを出、家に帰ることにして、駅前のシャポーを歩いている時に、花屋があって、ザッと見たら、平行植物が売っていたので250円で買った。8号の植木鉢で袋がいるか聞かれたから要らないと言ったらそのまま渡された。さっき薬局で貰った胃薬の袋の中に一緒に入れたらバランスが悪い。
 近くのスーパーに寄る。アラビアの音楽が流れていた。嘘だった。マツケンサンバの三味線アレンジが流れていた。どこに行けばこのCDを手に入れられるだろうと考えていたら、タコを買ってスーパーを出ていた。
 タコは胃に優しいか優しくないか、分からないから食べたくなって、手に取ったのだと思う。「タコは胃に優しいか」この命題を解くのに、手っ取り早い解決法は食べることである。ちなみにスマホで検索すると何かしらヒットはする。「やめておいた方がいいでしょう」というつまらない結論が出ていた。男らしくない答えである。ひょっとしてタコが書いているのかもしれない。「アタシたち食べない方がいいよ、絶対胃に優しくないからさ、身のためよ」

 ビニールをカサカサ言わせながら、家に着いた。玄関を開けると、タコが既に私を迎える準備をしていた。
「遠路はるばる、ようこそおいでくださいました」
「ここあたしの家なんやけど」
「ささ、お食事の用意ができてますので」
 コンロが一つしかないキッチンを抜け、長い廊下を渡ると、庭園みたいな中庭が見えて、苔、とか石とかが綺麗に並んでいた、と思って目を凝らしたら、海藻とサンゴだった。川のせせらぎが聞こえると思ったらそれは海底火山の噴き出しと鯨の死骸から出るメタンガスの泡がバブバブと噴き出しているのだった。
「あの、ちゃうやん、タコ、買うてきてんけど」
「はて」
 タコは居心地が悪くなったのか、そのまま中庭の深海に消えていった。私は思い出して、ビニール袋を漁ったが、やっぱりタコのいたはずの発泡スチロール板には、ラップが被さっているだけだった。平行植物の鉢は倒れて土が散乱していた。私はそれを見つめていて、ミスタードーナツのダブルチョコレートを食べたくなった。胃炎だから多分、ダメ。
「あのう、ダブルチョコレートって」
「ダメです」
 頭の中の医者に聞いてみる。
「ゴールデンチョコレートは?」
「むう、半分くらいなら」
「やりました!」
 思わずガッツポーズをしたら、右手を挙げている私を、上から見下ろしていた。

 タコを茹でた。海底のチムニーでは、普通生きていられない環境に適応したたくさんのバクテリアが住まう。それは海底の宇宙そのものである。茹蛸は沸騰したお湯の対流に巻き込まれ、脚を泳がせていた。スマホが震えたので見たら、男だった。
 茹蛸を、菜箸で貫いて食いちぎった。美味しくなかったから、次は塩でも振ればいい、と思った。

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