変態的な容器と、純粋な体液

カタカナで書かれた肩書は何度読んでも、何をも意味していないよう見える。「クリエイターをしています」なんて言われた日には、そうですか、とという以上に言葉が出てこないだろう。あなたは何を創造(クリエイト)しているのか、それがわかるような肩書を、最初に教えてほしいものだ。

僕は文章を書きたくて、それはいつか、いろいろな人に見てもらいたい、というのが、やっぱり、どんな人の欲望でもあって、もちろん自分の欲望である。ただそのうえで、それがただキーボードをタイピングするだけの、指の運動になっているのは、やっぱり違う。何故文章という形なのか、絵や写真じゃないのか、音楽や料理じゃないのか。それを読んでもらうことが何なのか、どうなりたいのか、自慰行為なのか。

ということを考えて、見ようかなと思う。

右上の、公開設定を押せば、少しの設定を経て、簡単に投稿できてしまう。そのアイコンに触れさせえすれば、noteを閲覧している人が、誰かの目に触れる可能性を秘めている。それはnoteもツイッターもなかった時代に、ネットがなかった時代に比べれば、とても多くの人が、文章を書いて、読んでもらえる時代になったということだ。最後まで目を通すことを読むというのか、ページを開くだけでも読むというのかはわからないけれど、なんにせよ、目に触れるという意味では、技術的な進歩、ツールの発展によって、可能性は圧倒的に広がった。

本しかなかった時代には、あるいはネットがそこまで普及していなかった時代には、書いた文章を読んでもらえるということが、とてもハードルの高いことだった。誰かの文章が、誰かの目に触れるという可能性なんて著しく低かった、と思う。この拙い文章が、一行でも読んでもらえていることは、10年前にはありえなかっただろうし、50年前なら、この書いている文章は、誰の目にも触れずに僕は死んだことだろうし、そんなことなら、書こうとすら思っていなかったかもしれない。だからそんな時代の、少しでも文章が書ける人は、それだけ貴重だったことだろうと思う。その貴重な本を読んだ人間は、例えば、場所を超え、時代を超えて、作家が、人が思っていることを知ることに歓喜しただろうし、悲観しただろうし、期待しただろう。

文章の性質は、会話のような、その場限りのものではなくて、残るものだ。それでも、会話に比べれば、思っていることが伝わり辛いし、嫌でも耳に入ってくる言葉とは違って、わからない言葉は目に映ることすらない。

だからこそ、文章はその形を保つことができて、空間と時代を超えることができてきたんじゃないかと思う。難解さや伝わり辛さという壁が、文章を空間と時間による腐食から守るためにあるといっても、過言ではないのではないか。だから、優しくて、読者思いのわかりやすい文章は、やっぱりどこか酸化していって、分かる人が時々あるからこそ、その輪郭をずっと保っていられるのかもしれない。

例えば僕は、ある種の芸能人が、自分の芸能人という職業の、二次創作的な活動をしているのが、どうも喉を通らない。自分が芸能人であることを前提にした二次的創作。オリジナルが絶対の真実で、偽物が劣位であるわけではないと思うけれど、どこか、そこにビジネス臭さを感じてしまうのが、僕には受け入れ難いのかもしれない。ある期間に話題になるためだけの、その時の誰かのまなざしだけを気にしたような、そんな作り方に、思春期の少年のような脆さを感じてしまうのかもしれない。

素朴さみたいなものが僕の根底にあるのだろうと思う。それは誰にでもあるはずだ。人間が人間であるための、最も純粋で、子どもっぽい、あるいは正義みたいなもの。みんなを救うことがゼッタイの正しさだと思い続けていたころの残滓。いつかまでは、すべての中心だったそれが、今は心の中心ではないどこかを、剥がれずに漂っているのかもしれない。

結局僕は、仕事のためとか、生活するためとか、人気者になりたいとか、そういう理由で文章を書きたいのとは違うはずで、違っていてほしいと思う。純粋素朴に、自分が正義だと思うことのために、誰かを救いたいという自分勝手なエゴのための文章。それが、自慰行為だと思われても、間違いではない。否定はできない。

結び。

文章を書くことが簡単になった社会で、数千字にも満たない文章のインフレが起こっている世の中で、それでも何かを書き続けたい、というのならば、何か価値を生み出さないといけない。それは、今にも消えてなくなりそうな、安くて速くてうまくて、カタカナの肩書みたいな容器ではだめで、変態的で、普遍的な、人類としての、芸術的な形と、情熱的な中身をしていなくてはならないのかもしれない。

それは時間と空間による錆びから防ぐことのできる、難解さや圧倒的な変態さの壁だ、と思う。ただ気持ちよくなるだけの平凡な変態さではなく、規範を超えた境界を、輪郭を、細胞壁を、筐体を持つこと。ただ、強固な壁だけの芸術というのもあるのだけど、僕はその中に自分の素朴な、勝手な正義感を、心の熱を、形の中に織り交ぜたい。変態的な容器の中に、ドロドロの自分の液体を形の中に注ぎたい。

どんな捉え方でもいいから、誰かの心に、少しだけでも、ぶるっと振動を起こせたら、それ以上の喜びはない、と思う。

でも僕は、結局何をクリエイトしたいのだろう。

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