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いないことにされる人たちについて

「宇多田ヒカルはノンバイナリーだとカミングアウトしたが,彼女は結婚・妊娠・出産したのだから,意図的にそれをしないと決意している私よりよっぽど女らしい」

最近この言葉についてずっと考え続けている。
妊娠・出産を経験したノンバイナリーは,ノンバイナリーではなく女性なのだろうか。
生物学的に定められた営みに従う場合,その役割を担う性とアイデンティティが一致していないと言った人が「おかしい」と名指されるのはなんでなんだろう。
見えない心のことをどうしてそんなに決めつけられるんだろう。他人の心も,自分の心も。

わからないな,と小さく呟く。
私はノンバイナリーを自認するようになってからいくらか経つけど,結婚できたらそりゃ嬉しいだろうし,子どもが生まれたら人並みに喜び慈しみ,鮮やかな驚きを持ってその生を見つめ続けたいと思うだろう。
それでも,私は,女性というアイデンティティを持つこと,他人からそうジャッジされることには違和感がある。
ホモ・サピエンスという生物としての繁殖行動とアイデンティティは別だ。

「ノンバイナリーと言っても,男性なのに生きづらさや性規範からの逸脱を理由にノンバイナリーを自称するのは間違っている。男性のまま男性としての生きづらさを解体するべきなのに,それは逃げだ。」

それもわかる。ノンバイナリーという言葉自体が既存の性規範を前提にしているから。壊すべきは性規範で。
それはひどく正論だ。

それでも私たちはこの社会の中でいないことにはならないだろう。
私たちらしく生きようとした時,社会の側からnoを突きつけられるのなら。
その経験こそが私たちが存在する証明になる。

大学院での研究費用として大切に使わせていただきます、ありがとうございます!