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恋で生計は立てられない 第一章「逃げるが勝ち」2


 地下一階の、重そうなドアを開けるとやはりホストクラブだった。実際に入ったのは初めてだ。私の手を引いている男は「お客さん入りまーす。こちらサービス接待でーす」と割に元気のいい声で、店内の人間に業務連絡を伝える。
「そちらの人は?」
 同じ黒服を着た別の男が出てきて、私に注目した。
「拾ってきたー。この人とってもつらそうだから、何か作ってあげて」
「あー、あれ? 人生疲れちゃった系? いい味のやつ入れてきてあげるよ」
 いとも簡単にうなずかれ、案内役の男は奥のカウンターに引っ込み、隣の男は私を、値段が張りそうなソファーに座らせた。
「で、どうしたの。うち、まがりなりにも女性を癒すホストクラブだから、今日はサービスでいっぱい話聞いてあげるよ」
 男は若干得意そうだったが、私に向ける目線は優しくて、不思議とカウンセラーが相手をしてくれているような、奇妙な安心感があった。
「……お金」
「いいの、いいの。サービスっつったでしょ。うちはマイペース営業がモットーだから。ガツガツじゃなくてね。ハッピースマイルよ」
「はあ……」
 気の利いた返事ができればいいのに、私はそのまま黙る。この後どうやって会話を続けたらいいのかわからない。世の中にはわからないことばかりがある。
 男の人は怖い。
 何をどう接したらいいか判断できない。
 重苦しい沈黙が流れるかと思ったが、ホストは「名前、教えて? 偽名でいいからさ」と柔らかな声音を出して、私の緊張をほぐそうと努める。
 どうしよう、どうしようと戸惑っているうちに、何か言わなくちゃと焦った心が、
「そ、そ……園子」
 と口走っていた。
 園子。
 飾り気の欠片もないネーミングだ。
「園子さん? 奥ゆかしい名前ですね! 俺、好きですよ、正統派の名前。DQNネームじゃなくてよかったですよ。園子さん、いいじゃないっすか!」
 ホストは高めのテンションで屈託なく話しかけてくる。ハマっている趣味は、好きな芸能人とかいるんですか、など、外堀から徐々に埋めてくる塩梅で、私の注意を引こうと努力してくれる。
「えっと、趣味は、特になくて……。テレビも、最近は、観てなくて……」
 何てつまらない返事だろう。相手が会話に困るじゃないか。でも私には、何もないのだ。私を形作る、確固とした好みも信念も、何も。
「園子さん、黒髪綺麗っすね」
 ホストは話題を変えた。
 はっとして顔を上げる。目が合った。対面のホストはメイクで目もとが盛れているが、案外に若く、肌の艶がよさそうだった。年を上に見積もっても二十代のうちに入るだろう。
 そうか。年下なんだ。
 いつの間にか、社会を動かしている人間が、私より下の年齢になってしまった。
「おばさんに、なってしまいました」
 口に出すと、いっそうの絶望感が肺の隅まで行き渡るように覆った。
「何の取り柄もないんですけど、年も取って、もうすぐ三十代になって、さらに何もなくなっちゃって、老けていく一方なんです」
 つっかえながら、一息にしゃべる。
「そんなの、あんまりです」
 ホストは私の言葉を黙って聞いている。
「何も、ないんです。本当に、何も」
 ぼそぼそと、吐き出すように自分の心情を吐露するのを止められなかった。
「空っぽ、なんです。私」
 影山明という人間には、誰も期待していない。
「駄目人間だから」
 口にしてしまうと、それはそれで奇妙な満足感があった。ようやく位の低い人間になれたと、自己憐憫にも似た一種の陶酔が、胸の奥を優しく満たす。
「誰が駄目って言ったんですか? 園子さんのこと」
 ホストはさも疑問であるという風に、話しかけた。
 まさか返されると思っていなかったので、ぽかんと口を開けてしまう。
「……え」
「具体的に、誰かに言われたんですか? お前は駄目だって」
「……えっと」
 ホストはきょとんとしている。
 記憶の糸を必死で辿る。誰かが私を否定したはずで、友だちや、家族や、昔のクラスメイトを思い浮かべようとするが、彼らの顔がうまくイメージとして浮かび上がらない。
 愕然として、私は再びパニックになる。
「誰にも言われていないんなら、園子さんは駄目じゃないってことですよ」
 今度こそ閉口してしまう。
 こんな甘い言葉をかけてくれる人がいるのか。
「そもそも、駄目な人間って、この世にいないと思います」
 私は思わずホストの顔を見る。
 彼はいたって真剣だった。
「俺、偉い人間なんかいないって思ってるんっすよ。仕事ができる人とか、有能な人とか、いますけど。それイコール偉いってわけじゃないんじゃないかなあ。最近めっちゃ感じてるんすよ。みんな同じ人間じゃんって。お金持ってる人と持ってない人。肩書きがすげえ人と、普通の人。それだけが違うだけで、あとはみんな同じように生きてるんですよ。数字も、記号も、それだけの意味しかなくて、人を計る物差しにはならないっすよ。
 偉い人間がいないんだから、駄目な人間も、いないんっす。
 だから園子さんは駄目じゃないです。
 これ、俺の主張です」
 ホストは例の得意そうな表情を見せて、にっこりと笑んだ。本人の信念か、定型化されたリップサービスなのかはわからない。けど、今まで知りもしなかった世界から、一つ新しい種みたいなものをもらった気がした。
 ホストは名刺を差し出した。
「俺、九条《くじょう》っていいます。漢数字の九に、条件の条。俺でよければ、これからいくらでも話聞きますよ」
 いつでもLINEください。うちのQRコードです。ホストはそう言って、私の手に名刺を握らせる。
「園子さんのこと、ずっと待ってます」
 その時ウェイターが来て、甘そうな味のカクテルらしきグラスを置いていった。見たこともない色が、店内の照明を反射して、色鮮やかに映えていた。

 九条は話し上手で、聞き上手だった。ホストだから当たり前なのだが、私はいちいち感動していた。会話が楽しいと思ったのは生まれて初めてだった。
 少しずつ自分の過去をしゃべれるようになるうちに、口をついて出たのは「異性との性の経験がなくて、寂しい」だった。
 言った瞬間、後悔が襲ったが、どこかでほっとしている自分もいた。何だ、私、寂しかったのか、と。
 情けなくて、滑稽で、みじめで、ださくて、でもほんの少しだけ自分を愛おしく思った。こんな感情は今までなかった。
 しばし私の気持ちを聞いてくれていた九条が、「よし」と強い声色を出した。
「園子さんに、紹介したいやつがいます」
「紹介?」
 九条はうなずいて、衣装の内ポケットから別の名刺を取り出した。再び私の手に握らせる。
 おそるおそる手のひらの紙の文字を追う。
『極楽浄土《ごくらくじょうど》 白 トップキャスト』
 名刺にはそれだけと、電話番号とQRコードが印刷されていた。
「そいつ、俺の仲間です」
 九条は薄く笑う。
「そこ、女性向けの性風俗サービス店です。女性にとって気持ちいいことしてくれる、まあつまりはエッチできるお店です。けっこう先駆的でしょ? 白《シロ》っていうネームなんすけど、超イケメンで訓練もちゃんと受けてるから、安心していいっすよ。園子さん、一回騙されたつもりで、行ってみたらどうっすか。白はとにかく優しいから、園子さんの孤独も癒されるかも」
 孤独、と私はつぶやいた。
 全身を覆うような、空しくて寒い感じは、これは、孤独だったのか。
 九条を見る。
 ニコッと微笑む顔は、少年の面影を残して、どこかあどけなかった。
 かわいいな、と思った。
 自分の周りに、知らない道が、進んだことのない道が一本のびていくような、新鮮な感覚が走った。
 そこに進んだら、私はどうなるのか。
 金を払って、イケメンの男に施しを受ける。
 落ちるところまで落ちたと、人は言うだろう。けれどもともと上のランクになどいなかった女だ。落ちても、下には地面があるだけで、今さら何とも思わない。いくらでも愚かになれる。
 愚かな女を、突き詰めてみようか。
 快感が私の背筋を甘くなぞった。
 知らずと口角が上がってくる。
 もう、どうにでもなりたかった。
「園子さん、目いいっすね」
 九条が不敵に微笑む。
「さっきまで心配なくらいだったけど、今、いい目してます」
 九条のささやきに、気がよくなる。
 行ってみようかな。
 口にして発言すると、愉快なときめきが私の胸を鳴らした。背中を押されたなら、あとは踏み出すだけだ。

 その日、私の人生が、すさまじい爆音を立てて崩れ去る気配が、した。

   ○

第二章へ続く。

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