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恋で生計は立てられない 第五章「神様が、もしいるのなら」1


 誰にぶつけたらいいのかわからない問いを、ずっと抱えて生きてきた気がする。
 中学を卒業し、行く当てもなく、優は一日の大半を外出して過ごした。目的もなしに街をさまよう。誰も優に気づかず、素通りしていく。すれ違う人々は赤の他人でしかなく、自分の人生に夢中で、行きかう誰かの孤独を知る由もない。
 胸の内に迫りくる衝動を、何と呼んだらいいのかわからない。怒りなのか、慟哭なのか、悲嘆なのか。何かを叫びたいのか、それとも抑え込みたいのか。
 こんな国、というフレーズが頭に浮かんだ。こんな国で生きていて、何になるというのだろう。生きていて特に楽しいことがあったか。幸せだと思えた時があっただろうか。この国から逃げようにも、外国語をしゃべれるような能力もなければ、学べる金もない。生活のすべてには金が要る。自分には手段さえないのだ。
 こんな国で生きていて何になるのだろう。
 生きることに意味などあるのだろうか。
 死ぬことが許されないのは、単に国としての都合が悪いからだろうに、生きろというのは実に勝手な話だ。
 どこかへ行ってしまいたい。
 この国から逃げたい。
 こんな国、消えてなくなってしまえ。
 誰か俺を遠い世界へ連れ去ってください。
 誰にも聞かれない願いを抱え、優は、東京の繁華街をふらふらさまよう日々を送っていた。


 その看板に目を向けたのは、偶然でも必然でもなかった。
 優は最初から、その店を目指してこの街に来た。
 ホストクラブ『HONEY,』と書かれた看板のそばに、地下へと続く階段。
 ホームページで高校生から働けると明記されてあった。優は迷わず階段を下る。自分自身の人生など、たかが知れているのだ。生きていくのが人間の義務ならば、せめてどう生きようが個々人の自由ではないか。
 優はここでの待遇に期待めいたものは持っていなかった。とにかく賃金がもらえればいい。門前払いされなければいい。支えなどいらない。そんなものはとうの昔になくなったのだ。
 扉は手動で開けるタイプだった。押すと、一昔前の鈴音のような、場に似つかわしくない音が響いた。
 中は営業前で、静かだった。ホストと思うような男はおらず、スタッフとオーナーらしき人物がばらばらにたむろしていた。
 みんなの目が一斉にこちらを向く。
 優は視線をはねのけ、オーナーと思しきガタイのいい男に近づいた。
「メールを送った、万城目優です」
「ああ、君が」
 男はやはりオーナーだった。すぐに別の部屋に案内され、そこで簡単な説明を受ける。
「ずいぶん若いね。未成年?」
「はい」
「さすがに義務教育は終えてるよね?」
「終わってます」
「なら、よかった。書類によると、まだ十六の誕生日が来てないみたいだけど、その間はホストとして迎え入れることができないから、しばらくは下働きとして扱うよ。いいかな。皿洗いとか、床掃除、トイレ掃除とかの、用務員みたいな仕事ね」
「わかりました」
 その他の説明事項にも、優は淡々と答えていった。いくつかの契約書にサインをし、さっそく本日から業務を行う段取りとなった。
 優の指導係に、いくらか年上の、線の細い痩身の男がついた。まだ年若く、それほど年齢は離れていないように見える。彼は明るい茶髪に、両耳に開けたピアスを光らせ、優に当店でのノウハウを教えていった。
「十九歳」
 男は少し得意げに言った。
「九条湊っていうの。お前は、万城目優ね。まきめじゃなくて、まんじょうめって読むのか。わりと珍しいよな」
 九条は、優がオーナーの前で自己紹介をしたことを覚えていた。人の顔と名前を忘れないタイプだろうか。何となく好感を覚え、優は九条には少しずつ懐き始めていった。
 二人は、時間をともに過ごすうち仲良くなった。九条が二十歳の誕生日を迎えると、優はささやかなプレゼントを渡した。「お前、いいやつじゃん!」と屈託なく笑う彼の笑顔は、案外かわいらしかった。優が十六になった日には、九条は少々値が張るアクセサリーをくれた。「お前のルックスに映えると思うよ」との言葉通り、そのネックレスは優の一日の気持ちを高めてくれた。彼は物選びのセンスがいいのだ。
 六月五日。万城目優は『HONEY,』にてホストデビューした。
 その年は早めの梅雨入りが発表された。柔らかく降る雨が空気を濡らして、繁華街にもいつもより落ち着いたムードが満ちていた。
 先輩の九条に引っ張ってもらいながら、優は客を得る手段を覚えていった。

   〇

 月日が経ち、業界にも染まってきた頃、その女はやってきた。
 第一印象は、ビジネススーツを着たキャリアウーマン的な雰囲気の女性。ただ、目つきが他の女性客と違っていた。切れ長の目は妖しく光り、見た者をどこか委縮させるような圧を伴い、それでいて目が離せないような蠱惑的なまなざしを持っていた。彼女はとても妙だった。正体不明の、得体のしれない女。
 彼女はカオルと名乗った。当店では客もホストも名前はすべてカタカナ表記で、優はユウと記されており、九条はミナトと呼ばれている。そのルールでみんなは楽しい時を過ごす。
 カオルは優を指名し、そのうち常連客になった。
 客とホストとしてのトークを存分に楽しみながら、優は彼女の正体を頭の中で妄想していた。カオルは三十代の見た目をしているが、実は某国のスパイで、とある刺客の情報収集のために当店に出没。または反社会勢力の一員であり、男を買うためホストクラブをはしごするのが趣味。そのような他愛ない想像をこっそり優がしていた時、カオルはふっと笑った。
「カオルさん、どうしたの?」
 優はめざとく見つけてカオルを誘惑する。
 二人の目が合う。
 優は知らずと高揚した気分になる。
 酒は入れてない。素面でこんな酔ったような感覚に陥るのは今までなかった。カオルは何者なのだろう。
 中学時代に付き合った恋人のことを、ふいに思い出した。彼女を見るたび、どことなく甘い酒に溺れるような気持ちのいい眩暈を覚えたものだが、その時の快感に似ていた。
 目の前のカオルはクスクス笑う。
「カオルさん?」
 優は不思議な気持ちで視線を合わせる。
「かわいいな、と思って」
 カオルは構える風もなく、ごく自然に言った。
「ありがとう」と、優は返す。にっこり笑うと、カオルも微笑み返した。
 グラスの氷がカランと揺れた。音楽も人の話し声もうるさく響く店内で、二人だけが互いの瞳しか映していなかった。
 何だろう、彼女は。
 優は抗いがたい興奮を静かに覚えていた。
「俺、カオルさんに気に入られたいな」
 優は彼女に一歩踏み込んだ。何となく、危険な賭けに出てみたくなったのだ。
「この後、抜けられるけど、どうする?」
 優はスッと流し目を送る。
「それは私にさらなる金銭を期待してのこと?」
 カオルは読めない表情で口元の笑みを深くする。
「それもあるけど、でも、それだけじゃないよ。俺、カオルさんに惹かれてるもの」
 優はうっとりと、カオルを見つめた。熱の入ったまなざし。瞳に潤みをためて、一途に相手を視界に収める。
「年下の坊やも悪くないわね」
 カオルは席を立った。了承の合図だろう。
 優はカオルをお持ち帰りした。


2へ続く。


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