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恋で生計は立てられない 第三章「あなた無しでは生きてゆけぬ」2


 東京から離れて、私たちは『極楽浄土』本店が構える南武線の電車に乗った。車内は混雑しているわけではなかったが、この路線は走行中の揺れが少しばかり激しいため、よく車酔いに似た気持ち悪さを起こしてしまう。あらかじめ白くんに伝えていたためか、彼は「身体預けていいよ」と私に甘いささやきをくれる。肩にもたれながら、閉まるドアを見るともなしに見つめた。
 日が落ちるのだなと、暗くなっていく車窓の景色を見て、思った。男性経験を得るという長年の夢が今まさに叶うところで、だからといってそれがどうしたという意地悪な無意識の自分が、表の自分を苛める。いっそ楽になってしまいたい。まるで拷問のような物々しい時間だった。幸せであればあるほど、先の不幸を想像して今がいっそう苦しくなるのはなぜなんだ。
 電車は着実に『極楽浄土』への最寄り駅まで近づいていく。
「園子さん」
 白くんがふいに笑いかけた。
 ドギマギして反応すると、
「緊張してる?」
 こちらを労わりつつも少しばかり悪戯めいて瞬く瞳が、私を見つめていた。
 何も言えず黙っていると、「俺もね、実はね、緊張してるんだ」と信じられないような返答が来た。
 目を見開き、私は彼を凝視する。すると苦笑を返された。
「だって、その、こういうのは拒絶されたらどうしようって、やっぱり最初は怖いよ。園子さんだけじゃなくて、俺も人並みに怖いものがいろいろあるよ」
「……うん」
 白くんみたいな、天使のような美貌を持つ子でも、たくさんの思いを抱えているのだろうか。歪で不安定な私と同じように?
 納得しようとして、けれどまだむずがゆい抵抗の中に沈んでいる自分もいて、結局曖昧に白くんの言葉を聞くしかなかった。
 電車は東京圏内からすでに南へ下っていた。街角はそれほど変わらない景色でも、外へ出ればあの日のように熱っぽい風を受けることだろう。その時、東京を離れたんだと、私は実感するのかもしれない。
 最寄り駅に着いた。
 辺りは宵の口に入ろうとしていた。
 電車を降りて改札を通る。白くんは再び私の手を握った。お互いに絡み合う指から温度の違う熱が伝わって、私は燃えるように熱いけれど、白くんはちょっと冷えてるなと、感覚の違いを思い知った。
 外に出ると、六月だと思える湿気だった。とにかく蒸し暑く、気温自体は高すぎることはなくとも、肌がじっとりと濡れていく感じがして、早くも汗が垂れた。
 表通りを横にそれて、裏路地に入る。道端でところどころに居着いて座りこむ若者と、隅の方で一人うなだれたようにうずくまっているホームレス。器用に避けて目的地へ急ぐ白くんと私。ここは光の差さない奈落の底だ。あと一歩間違えば、私も彼らと同じように墜落していく一方なのだ。人生を上るのはこんなにも過酷で、息切れしそうなのに、一度足を踏み外すと歯止めが効かないほど転がり落ちてしまうのはなぜだ。
 私は、落ちていいのだろうか。
 本当に、身体を差し出して、後悔しないだろうか。
 白くんを信用している。――本当に?
 自分の声を確かなものにする根拠を持てなかった。
 焦げ茶のコンクリートの建物が見える。『極楽浄土』だ。いつ見ても古民家のカフェのようにしか思えない、女性向け風俗店。
 店長は、どんな人間なのだろう。
 突然、素朴な疑問が湧いて、人に対する興味がまだ残っていた事実に驚く。
 白くんをこの店に迎え入れた人は、そもそもいったい何の意図があって、女性向け風俗店を営業しようと思ったのか。男なのか、女なのか。
 シャッターをくぐる。白くんに連れられて私も店内に足を踏み入れる。
 この前見た通り、受付スタッフが二名仕事をしている。白くんと私を見ると、すべてわかっていますよというように空いている部屋の鍵を渡す。白くんは慣れた手つきで受け取って、私を案内しようとしたところで「白くん」と受付の一人に呼びかけられた。
「何?」
「ちょっと緊急の連絡」
「わかった。園子さん、ごめんね。少しここで待ってて」
「は、はい」
 私は隅の壁際に寄り、所在なく白くんの後ろ姿を眺めた。スタッフたちは何やら忙しそうに話し込んでいる。トラブルでも起こったのだろうか。
 スタッフの一人に受話器を渡された白くんは、とても甘く優しい声で応対している。まるで本物の恋人に接するみたいに。聞きたくなくても、電話の向こうは彼の数多くいる一人の顧客なのだとわかってしまう。
「アカリさん」
 白くんの口から、私の名前がつぶやかれた。
 心臓を鷲掴みにされたような驚きが上がって、飛び上がりそうになった。すぐにそれは私の名前ではなく、白くんと今話している電話の相手の名前だと知る。シークレットネームなのか、本名かはわからない。ただ「アカリ」と発せられた彼の口調が艶やかな色合いできらめいている気がして、心がまだドキドキしてる。
「今週は、ちょっと会えないけれど。でも永遠に予定が空かないわけじゃないから、また会えるよ。連絡、絶対するからさ、あまり思いつめないで。今日は、スケジュール詰まってて。――うん。アカリさんのこと好きだよ。人として応援してるよ」
 耳にイヤホンをぶち込みたい。否応なしに現実に引き戻されるきっかけを作りたくない。私は白くんの顧客。もっとわがままに振る舞ってもいいのではないだろうか。白くんはキャストとして私に親切に対応する義務がある。あのアカリって人と同じように。
 どれほど待っていたのかわからない。気づくと私の意識は半分飛んでいて、今が何日でここがどこなのか忘れかけていた。目を開けたまま死んだように壁際に突っ立っている私を、行為終わりの他の客とキャストが入れ違いに通り過ぎて行き、人の出入りが少し落ち着いたところで白くんが戻ってきた。
「電話、長引いてごめんね」
 白くんは両手を合わせてこちらに許しを請うポーズを見せる。「うん、大丈夫」と私はかすれた声で言って、口の端を引き上げようとがんばる。うまくできなかったけれど。
「今日、園子さんのこと困らせてばっかりだから、部屋に入ったら俺のこと好きにしていいよ」
 白くんは申しわけなさそうに私の手を取って、まるでそれが免罪符であるかのようにのたまった。どう答えればいいのか判断しかねて、私は彼を凝視する。
 白くんの笑顔はなおも優しくて、迷いがなかった。
「生活の鬱憤とか、いろいろなストレス、俺にぶつけていいよ。俺で憂さ晴らしして」
「……憂さ晴らし、というのは」
「普段できないこともしていいよ。ひどい行為も受けてあげるよ。俺はそのためにここにいるから」
 白くんは私の手を握って、エレベーターに歩き出す。ドアが開いて、私たちは中に入り、階のボタンを押す。「今日は四階の二号室ね」と白くんは部屋の鍵番号を見せて、私はうなずいて、再び身体が密着する。白くんが恋人同士の空気を演出させようとしている。私の肩を抱いてそれとなく撫でたり、こちらを意識した瞳を向けている。
 四階に着いた。
 廊下の窓から見える外はすでに暗い。
 太陽も、自分も、もう沈んだんだ。
 アカリって誰なの、とは聞けなかった。ルール上、他の客のことは無視しなければならないし、何よりも私にそんな勇気はなかった。
 ドアを開け、部屋に通される。白くんは「先にシャワー浴びる? それとも何か飲む?」とごく自然に私をリードしようと努めている。私は「……シャ、シャワー」とどもりながら答えて、脱衣所に逃げた。震える指で服のボタンを外す。そもそもどれくらい身体を洗えばいいのかわからない。ボディソープで泡立てて本格的に洗った方がいいのか、湯を当てるだけでいいのか、時間は何分を目安に風呂場を出た方が妥当なのか。何も教えられてない私は混乱する意識の中で、とにかく自分が臭くなければいいと願った。
 お湯はまるで温泉のシャワーみたいに肌当たりのいい水圧で気持ちよかった。緊張でこわばっている自分の心ともども温かい湯で洗い流し、包んでくれるみたいだ。
 泣きたくなるような気持ちを抱いて、風呂場を出て備えつけのバスローブに着替える。
 白くんが交代で風呂場に入って、私はカップルの同棲を演出した小さな部屋の真ん中のソファーに所在なく座った。テーブルには彼が用意してくれた飲み物が二人分置かれていて、緑茶の方を選んで飲んだ。心地よい苦みとうまみが喉を滑り、本物の二人暮らしだったらいいのにと陶酔しかけた。
 ここの設営費用や管理費などは、どこで賄っているのだろう。女性客からのギャラで本当に回していけるだろうか。
 知ろうとすればするほど、底なし沼のいちばん下を覗いてしまうんじゃないかと気が気でなかった。そのくせ一度気になると奥歯にものが挟まったみたいにすっきりしない。
 彼らは、どうやって生計を立てて、生きているのだろう。
「真っ当な人間じゃない」と、脳内に親の声が響いた。
 小さい頃から、親はまともな人間になりなさいと私に言い聞かせていた。恥ずかしいことをしないでと。人様に顔向けできないようなことをするなと。
 私が、学校に行けない不登校児になったり、就職浪人で何にも所属しない人間になると、「恥ずかしい」とひたすら言い続けた。
「そんなことでどうするの。社会でやっていけませんよ」
「社会に通用しない人間になるな」
 刷り込まれたそれらの台詞は、私を縛り上げ、何かの組織に所属して働かないといけない使命を叩き込ませた。
(聞き飽きた。その台詞はもう、うんざりするくらい)
(親なんて、家族なんて、大嫌いだ)
 誰も好きになったことがない。誰も愛したことがない。この世には私の敵ばかりが幸せそうに生きている。
 堕ちたい。
 どうしようもないクズになりたい。
「また考え事してる」
 はっと気づくと、白くんがシャワーを終えて私のそばに近づいていた。
 バスローブを着た彼は、私なんかと比較にならないぐらい顔立ちの素材の良さが生きていて、湯上がりの少し火照った匂いも、男性的なエロスを誘わせた。
「園子さん、何かを考えてる時、色気が出ますね」
 白くんはそう告げると、私をそっと抱き寄せた。
 男の身体だ。
 男の匂いだ。
 額に柔らかい感触が押し当てられる。
 白くんの唇が私の額に触れていた。
 夢にまで見た瞬間だった。くすぐったくて、こそばゆくて、どうにかなってしまいそうだった。白くんの指先がつー、と私の頬を撫でて、下に降りていって、首筋を優しく触った。それに合わせて唇も順を辿って私を甘やかした。
 白くん、スイッチ入ってる。
 彼の瞳に覗きこまれて、視線と視線が絡み合った。熱の入った目の色が、これがお前の男だよと言っているような、有無を言わせない強い圧を感じた。
 仕事の顔だ。
 彼の顔が近づいてくる。
 どうしたらいいかわからず、私は馬鹿みたいに硬直していた。
 身体中が緊張のせいで石のようになっていた。
 白くんの顔はもう目の前だ。
 目を閉じるのも忘れて、彼のキスが私の口に合わさってくるのをぼうっと感じていた。
 柔らかくて、温かくて、生々しかった。
 感触を確かめるように少し強く吸われて、身じろぎして逃げようとするのを肩に置かれた手に抑え込まれた。決して乱暴ではなく、労わるように、気遣うように、ここにいてと願われるように肩を抱き込まれる。どうすることもできなくて、ただじっと耐えた。自分がキスに感じているのかいないのか、判断できなくて、ひたすら受け身のまま時間の流れを感じていた。
 顔が離れて、私は手を引かれ、ソファーから立ち上がった。白くんにベッドに連れて行かれる。ゆっくりとシーツに押し倒され、彼が上に乗っかってきた。まるで少女の頬をなでるような手つきで、齢三十間際の私の顔を両手のひらで包んで、むにっと揉むと悪戯っ子のように微笑む。「園子さん、かわいい」とつぶやき、再び顔を近づけた白くんを、拒む選択肢は脳内に残されてなかった。
 キスは優しかった。気持ちよかった。この仕事をずっと続けていたのだなと察せるくらい、行為には私への配慮も労わりも感じられて、嬉しかったし、喪女のまま枯れていく一方の自分の自尊心を取り戻せた気がした。
 だから、後悔はなかった。
 迷いもなかった。
 彼の手つきがだんだんと下の方に移動していくことも、私は待ち望んでいた。
 バスローブは解かれていて、決して若くも美しくもない私のだらしない肢体が白くんの眼前に晒されていた。顔を背けることもできない、緊張の一瞬が私の意識を固まらせる。けれど白くんは嫌な顔一つ見せず、本物の天使のような慈悲深き笑みさえ携えて、私を見つめていた。
 彼の、細くて節ばった指が肌を触った。脳が沸騰するかのような熱さを持ち、肌のあちこちが彼の指先に翻弄されて、声にならない声が漏れた。自分じゃないみたいだ。体温に、ふれた。人の体温にふれることができた。そう思った。何も持たない私。何もできない私が、赤の他人の、美しい男の肌に触れている。狂気に落ちてもいいと思った。他には何もいらない。今ここで死んでもいい。明日よ、来るな。
 気づいたら、泣いていた。目から大粒の水滴があふれ出ていた。嬉しくて、嬉し過ぎて、逆にすごく寒かった。裸だからだろうか、部屋の気温が直に肌に響いて、冷気が射すような感じがして寒気を覚えた。
 どうして。私、今すごく幸せなはずなのに。
 涙は止まるどころかさらにあふれてきて、自分自身の気持ちを持て余した。自分の意思がどこにあるのか、涙腺をコントロールできずに私は途方に暮れた。
「やめよう」
 白くんの声が聞こえた。
 え、と思っているうちに彼は私を抱き起こし、バスローブを着させた。次いで身体を包むように抱きしめられる。
「怖い思いさせちゃったね。ごめんね」
 違う。何言ってるの、白くん。
 勘違いだよ。
 私が馬鹿な反応しちゃっただけ。嬉しかったんだよ。白くんに触られたいから、続けてよ。もっと、触れてよ。
 呆然とする私に、白くんは申し訳ないように微笑む。それはひどく苦しそうな笑顔だった。まるで白くんも同じように泣いているようだ。
「や、やめないで、いいから」
 やっと言葉を絞り出し、白くんにすがりつく。しかしその手はゆっくりと振り解かれ、私は彼と向かい合って座らされた。
 私は必死に言い訳を探した。
「やめないで。お願い。やめないで」
 懇願する私を、白くんがどういう目で見つめているのか怖くて、視線を合わせられずにいた。恥もプライドも最初からない。そんなものはとっくにズタズタだ。生まれた時から、私は人生に失敗し続けている。
「私、いい歳こいて、処女なのが、もう嫌で。何か変わるんじゃないかって思って、どうにでもなれって気持ちで、ベッドにいるんだから、急に、やめないで。私、気持ち悪い? 身体、臭い? もっとちゃんと洗うから、男の人と寝たって事実が、ほしい」
 伝えたいことをうまく伝えきれずにどもりながら、言葉の選択もよく考えずに、ただ思ってることを吐き出した。
「私を、人間にして」
 真っ当に生きれない自分を、めちゃくちゃに扱って壊してほしい。
 破滅への道。
 正気を失いたい。
 それを叶えるのは、白くん、あなただ。
「いつから?」
「……え?」
「いつから、自分をそんなに否定するようになったの?」
 言われた意味がわからず、絶句していると、彼も言葉を続けるのがつらくなったように、しばし無言でいた。
 白くんはベッドの縁に座り直し、何をするでもなくどこか虚空を見つめながら、再び私に話しかける。
「園子さん、自分に対しての評価がすごく低いから、何かあったのかなって。俺を指名するお客さん、多いんだ。そういう人。もともと、このお店に来ること自体、満たされてない証拠なんだけどね」
「そ、そう、なの?」
「幸せな人は、そもそも女性向け風俗なんかに来ないよ。存在も知らない人が多いんじゃないかな」
 それは一理あると思った。実際、私もつい最近までそんな風俗店があるなんてつゆほども知らなかった。知っていたら、もっと早くから羞恥心を脱ぎ捨てて白くんを見つけ出せたのに。
 何で行為をやめたの、と聞こうとして彼の顔を眺める。口から言葉を出そうとする前に、白くんは傷ついたような苦笑いを浮かべた。
「園子さん、嫌がってるでしょ。触られるの」
 一瞬、何を話しているのかわからず、脳みそが受け答えを拒絶しかけているのをこらえて、私は懸命に訴えた。
「嫌じゃ、ないです」
「嘘。身体がこわばってるから、わかるよ。園子さんは、本当は性行為をしたいわけじゃないと思う」
 きっぱりと言われて、私は途方に暮れた。それなら自分は何を欲しているというのか。あなたに抱かれるために、それなりに身だしなみを整えて風呂にも毎日念入りに入ってスキンケアも気合を入れて、今日を迎えたというのに、なぜ今になって私を拒絶するのか。
 抱き合うのが嫌なのは、白くん、あなたの方ではないのか。
 喉まで出かかった言葉を、ぶつけようにもぶつけられず、私は唇を噛んだ。猛烈に悔しい気持ちがせり上がって、思わず泣きそうになった。けれどここで泣いたらまた白くんは私をかわいそうだと思って、頭を撫でてくれるだろう。そんな行為はもう受け入れがたかった。
 私、かわいそうなんかじゃない。
 ベッドから降りる。驚いたようにこちらを見上げる白くんの前に回り込んで、なけなしの勇気を振り絞った。
「白くん、が、好きです」
 つっかえながら、どもりながら、自分の気持ちを伝えた。心臓が割れるほど高鳴り、頭が沸騰したように熱い。ついさっき彼に拒絶された悔しさと怒りに触発されて、好きだけじゃない、彼への憎しみもふつふつと沸き上がってきていた。
「白くん、なんか、大好きです。きっと一生好きです」
 金で事足りる関係だけじゃ、もう満足できない。
「同じ世界に、いたい」
 初めて自分の中に生じた、欲望だった。
 この人と同じ場所に立ちたい。
 この人を、自分のものにしたい。
 この人だけのものになりたい。
 彼を好きになってる。他には何もいらないぐらいに。対等に見られたいほどに。恋心を抱くことがこれほど激しく、痛切な思いだなんて知らなかった。
「白くんと、ずっと一緒にいたい」
 私は頭を下げ、懇願した。
 水を打ったような静けさが部屋に満ちた。彼が今どんな表情でこちらを見ているのか、怖くて顔を上げられなかったけれど、後悔はしていなかった。後は、白くんがどう受け止めるかだ。私はただ待つことしかできない。
 死んでしまいそうなほどの息苦しい沈黙の時間だった。
「入りたい?」
 しんとした無の空気を破って発せられた台詞は、予想もしていなかった内容で、意図を理解するのに数秒かかった。
 おそるおそる視線を合わせると、白くんは、今までに見たことのない無表情でこちらを見上げていた。
 何も、ない。
 空虚な顔色だった。
「この世界に、入ってみたい?」
 白くんの声はまるで死人のようだった。長く生き過ぎたゆえに、活力のない枯れ果てた老人の声にも似ていた。
 私は身動き一つできず、固まっていた。
「ここには、同士がたくさんいるよ。同じ穴の狢《むじな》が。俺みたいなやつ、探さなくてもそこら中にあふれてる。女の人からお金もらって、ご希望通りの男演じて、それで一日をしのいで生きてる、ゴミみたいな人間……」
 何でそんなこと言うの、と言いかけて、やっぱりやめる。私はこの人を何も知らない。客とキャストでしかありえない。だからこの人が内側にどんな闇を抱えていようと、私は、自分以上に価値のない人間など他にいない自信があるから、この人を美しいと思える。闇のない人などいないから。
「俺も、園子さんのこと好きだよ」
 胸が詰まった。
 そう言ってくれるのを待っていた。望んで、望んで、狂うほど焦がれた愛情。白くんがそれをくれるなら、私も今持っているものをすべて捨てる覚悟があった。
 選択肢なんか、何一つ残されていない。もとから私に安住の地などなかったのだ。
「同じ世界に来てくれるなら、もっと好きになれるよ、園子さんを」
 再び、泣きそうになった。
 うなずきだけを返した。
 こみ上げてくる愛おしさ。しびれるような喜びを胸に、私は下を向いた。

   ○

第四章へ続く。

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