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恋で生計は立てられない 第六章「闇をみつめる」


 アカリは傷害罪で逮捕された。
 白の身体の傷は入院ほどにはならなかったものの、完全に癒えるまでには時間がかかった。
 極楽浄土は一時期騒がれたが、メディアには「風俗店」とのみ取り上げられ、詳細の説明を省いたままアカリの罪状のみがくり返し報道された。
「香さん、やるなあ」
 自分たちの店が一部ぼかされ画面に映ったところでテレビの電源を切り、白は療養中の期間を気楽に過ごす。
 電話が鳴る。スマホを取って確かめると、九条からだった。
「もしもし」
 耳の向こうから、さも楽しげな声が聞こえてくる。
「むしり取れるだけむしり取れたか?」
 九条は自分が引っかけた相手を時々白にも采配するのだ。その恩恵にあずかれている白は、まだまだ彼に頭が上がらない。
「また、逃がしちゃった」
 ぽつりと言った。
 通話口から深いため息が聞こえる。
「……正気の沙汰?」
「うん。多分」
 へへ、と笑い声を漏らし、白は続けた。
「ごめんな、九条」
「それはいいけど、あの人は史上最高級のカモだと思ったけどなあ」
「正直、今まででいちばんの出来だった。でも、かわいそうだったから」
 一瞬間を置き、九条が発言した。
「お前はかわいそうな人が好きなんだよ」
「……そうだね」
 孤独は手ごわい。知らないうちに自分の内部を侵食し、精神を犯してくる。孤独の怖さならじゅうぶん知っていた。彼女には――アカリにさえも――これ以上の搾取はできないと自分自身が告げていた。
「それで、これからどうすんの?」
「今まで通りだよ。極楽浄土のキャストであり続ける。どっちみち、俺は変われないんだ」
 アカリを挑発したのは他でもない自分だ。正常な判断を下せなくなっていたアカリに、別れを言って逆上させたのは、店を守るためでもあったし、香の足を引っ張らないためでもあった。
 同じくらい、アカリの現状改善を願っているのも、決して嘘ではなかった。
 壊れていく人を、ずっと見続けてきた。
「俺は――俺たちは、この仕事を辞められないし、一生変わることはできない。だからせめて、その世界で一生懸命に生きる。導いてくれた人のための俺であり続けるよ」
 九条はふっと笑った。吐息が通話口越しに聞こえる。
「お前は、いい意味でずっと、お前のままだと思うよ。初めて会った時の、投げやりな目をした、でも甘え上手な、マイペースでお人好しの精神が残った、心優しい万城目優くんですよ」
 今度は白が笑う番だった。
「ありがとう」
 礼を言った。彼も彼のままで、ずっと変わらず、外れ者の仕事をして生きていくのだろう。その一生を、この仕事を、誇ることも卑下することもなく、ただ受け止め過ごしていく。
「怪我、お大事にー」と言い残し、九条は電話を切った。白も通話をオフにし、スマホをソファーに置く。
 蛍光灯がジジ、と点滅した。窓の外はすでに夜の帳を下ろし始めていて、冬が近いのだと実感する。
 極楽浄土がすでに恋しくなっていた。


 怪我から復帰し、店に戻る頃には騒ぎは完全に鎮静化し、客の足もいつにも増して健在だった。
 極楽浄土は、密かな知名度を獲得したようだった。今までと比べて、一見さんが多くなっていた。たいていの客は蘭堂に夢中になるが、白のような中性的な美貌の男を求めるファンも根強く、白も順調に新規の客を獲得していった。
 季節は進み、冬になった。
「クリスマスデートがしたい」と早くから約束を取りつけた女性客と並んで街を歩いていた白は、前を行く人々の中に、見知った背中を見つけた。
 相変わらず猫背で、うつむきがちに歩いている彼女。
 懐かしいと感じた。
 彼女も変われないのだ。望むと望まないとに関わらず、自分が自分であることをさらけ出して生きている。取り繕えない生身の人間の存在を感じた。
 彼女のそばに、数人の女性たちがいるのに気がついた。職場の同僚だろうか。
 話しかけられた彼女は、ふいと横を向く。
 白は目を見開いた。
 彼女が、笑っていた。
 ほんの少しだけ、微笑みに近いほどの静かな表情だったが、確かに笑顔を見せている。
 唐突に、脳内に光が走ったような気がした。
『優は、天使みたいな子だね』とささやいた、母の言葉がフラッシュバックした。
 母も、本当は彼女のような性格だったのではないか。
 知らずに過ごしていたかつての日々が、白の脳裏に浮かび始める。優しく頭を撫でてくれた母の手つき。頬を殴った時の、憎しみすべてをぶつけるような力強さ。
 父と、どうやって出会い、結婚するに至ったのか、母はいったい心の奥で何を思い、考えていたのか、欠片も興味を持てなかった親の過去が、白の中に巡る。
 お母さん、と、長い間口にできなかった親を、呼びたくなった。
 もう、どこで生きているのかも知らないけれど。
 つながりさえ持てなくなったけれど。
 何もかも許したくなった。
 母はか弱い人だったから。
 白は少しだけ目を閉じた。
 一呼吸おいて、再び目を開き、世界を見つめる。
 女性たちのグループは歩く速度を上げ、白たちから遠ざかっていった。夜の大通りを楽しそうに、軽快な足取りで。
 白は彼女を見送った。
 懐かしいと、再び思う。
 心の中には、穏やかな感情の波が流れていた。
 白は隣の客の手を握り、自らのジャケットのポケットに一緒に入れた。恋人つなぎをされた女性客は嬉しそうにはにかむ。
 東京の空におあつらえ向きの雪は降らない。空は澄み渡った夜空で、ビルの隙間から星々がチカチカ光っている。都会の空気でも見える強さの星が、白は好きだ。輝かしい人工ネオンの光と溶け合うように、街行く人の何もかもを照らしているように感じる。
 自分は意外とロマンチストだから、これぐらいは夢想しても罰は当たらないだろう。
 白はふっと笑った。「どうしたの?」と愛おしそうに尋ねる女性客にぴたりと身を添わせて、幸せだと思った。
 はたから見たら外れているだろう。まともじゃないと、誰かは軽蔑するだろう。しかしそれでいいとも思う。白が今この瞬間を幸福と捉えているならば、誰に後ろ指をさされても、白は幸福な人間なのだ。
(だから、もう、いいんだ)
 白は、姿が見えなくなったあの日の彼女に、再びのさようならを告げた。
またどこかで会うのか、二度と関わり合うことはないのか、白には判断もつかないけれど、あなたが幸福でありますようにと。
 女性客と寄り添い合うように、白はクリスマスのイルミネーションを眺めながら、ゆっくりと歩き続けた。
 夜が、更けていく。


   〇

次回、終章。



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