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恋で生計は立てられない 第四章「他人の領域」2


 中学に入り、楓とは進路が分かれた。彼は都内の私立学校に進学し、優は地元の公立校に進んだ。
 中学二年の終わり、優は生まれて初めて、女子生徒から告白された。
 恋がどういうものかは、優にはよくわからない。ただ、目の前の彼女が、あまりに懸命に、切実な瞳で、自分を熱く見つめていたのが、不思議と心をじわりと疼かせた。こんな感覚は今まで知らなかった。
 優は、その場の押しに負け、彼女と交際を始めた。
 女子の手の温もり、握った時の指先の細さ、肩幅も腰つきも胸のふくらみも、男の自分とはかけ離れた柔らかな甘みだった。彼女を見るたび、優の中の何かが音を立てて軋むようだった。その痛みを快感だとも感じた。欲情している事実を知るには、優の意識はまだ幼かった。
 ある朝、優は担任教師に呼び出されて職員室へ向かった。
 普段の行いは優等生的で、問題になるような生活態度ではなかったはずだが、と疑問に思っていると、優は担任から奨学金制度を薦められた。
 高校に上がれるかどうかはかなり厳しい状況だと、優は担任に報告していた。家計は火の車同然の状態で、優は前から中学を卒業したら就職すると告げていたのだ。
 担任は、教育を受けるのは子どもの権利だからと、優の成績を立ててくれた。迷ったが、担任の言葉を信じ、奨学金を申し込むことにした。
 家に帰り、母に伝えた。優が中学に入る頃に、父と母は離婚して、親権は母が持っていた。父とはすでに絶縁状態で、父親という存在が本当にいたのかも、今ではわかっていなかった。
 奨学金関連の書類を見せ、優は仕事帰りの母に直訴した。高校までは行かせてほしいと言った優の目を、母は胡乱に見つめた。
「学校、行きたいの?」
 母は吐き捨てるように問いかけた。
 優は音もなくうなずく。母は黙りこくった。
 母はもう、優を天使とは呼ばなくなっていた。二人きりの暮らしが始まると、不思議と今まで調和が保たれていた三人家族が、空中分解してはじけた。母と優は些細なことで喧嘩をするようになり、互いに口も利かない状態が長く続き、家にいる時間が短くなった。優は学校へ、母は仕事へ居場所を求めるようになり、親子の意味をなさなくなった。
「学校なんか行かなくてもいいじゃない」
 優の申し出を、母は鼻で笑った。そのまま書類を優に突き返す。
「別にいいでしょ。どうせ行ったって貧乏人って言われていじめられるだけよ。ガキなんかそんなもんだし」
 母はいつしか口汚い言葉を使うようになった。優に対しても同じで、優しく頭を撫でてくれた笑顔のたおやかな母は、面影すら見つけられなくなっていた。
「働きに出なさいよ。その方があんたのためになるわよ」
「俺は、あなたとは違う」
 優が母を遮って言葉を放つと、母の目はますます胡乱に陰った。
 構わず、優は続ける。
「自分が青春できなかったことや、夢を叶えられなかったことを、八つ当たりして人にぶつけるようなあなたとは違うから」
 母の表情は変わらなかった。子どもにそう言われるのもわかっていたかのように、口元を歪めて「はっ」と馬鹿にするような笑みを出す。
「何も知らないくせに」
「書類にサインをして。そうしないと俺はここを動かないよ」
「脅しのつもり?」
 母は優をこれ以上なく見下げた。
 醜い人。優は直感でそう思う。次の瞬間、後悔が襲ったが、しかし自分の心はいまだかつてない、母への軽蔑で満ちていた。醜い人。かわいそうな人。幸せになれると信じて結婚して、子どもを産んで、実際は息子に対する愛情の欠片一つ持てない、愛のない人。きっとまだ再婚できると信じて、秘密に男を漁っているのだろう。中年になっても太っていないのが証拠だ。
 優は母親を哀れだと思う心を止められなかった。
「何よ、その目は」
 母はいよいよ怒りを抑えられないらしく、優を眇めた。
「別に。かわいそうだなと思っただけ」
 ひどく暴力的な感情が心を支配していた。なぜそんな言葉を吐いたのかわからない。言わなければよかったと思うのに、ついに言ってやったと悦ぶ自分がいる。
 両極端だ。母も、父も、自分も。
 万城目一家は、似た者同士の集まりだったのだ。
「もう家族なんてやらなくていいよ」
 優の口は止まらなかった。
「しんどいでしょ。無理して母親の役目を負うことなんてないから。俺も息子の役をやるの、限界だし。他人になろうよ。その方が幸せだよ」
 頬に強烈な痛みが走った。
 一瞬おいて、殴られたのだと気づいた時には、優の手は母親の頬を張り飛ばしていた。
 殴り返されるとは思わなかったのだろう、母は目を見開いて、ひどく傷ついたような苦しい顔をしていた。その顔が癇に障り、優はもう一度母親をぶった。何もかも壊したかった。すべて無茶苦茶にして、跡形もなく消し去りたかった。自分も、この人も、他人も。
 母が掴みかかってきた。優も負けじと抵抗する。取っ組み合ううちにテーブルにぶつかり、物が激しく床に落ちる音がした。
 母の伸びた爪が優の頬を引っかく。その腕を掴み上げて思い切り突き飛ばす。母は身体ごと壁にぶつかり、何事か低く叫んで、次の瞬間には優に向かって体当たりを食らわしてきた。
 優も叫びながら母の頭めがけて拳を落とした。悲鳴ともつかない奇声が部屋に響く。互いに獣のような声を出して取っ組み合い続けた。
 目から涙があふれていた。なぜこれほど凶暴な気持ちになっているのかもわからず、優は泣きながら母を殴った。無力で、みじめで、消えてしまいたかった。
 気がつくと、部屋で一人、座り込んでいた。
 母は床にうずくまり、動かなくなっていた。肩がかろうじて上下している。苦しくうなっていた。
 息がしづらかった。
 血がこびりついている手のひらを抱くようにして身体の震えを抑えようとしたが、呼吸は浅くなるばかりで、目の前がかすみ始めた。
 這いつくばるようにして立ち上がり、部屋を出た。
 玄関のドアを開け、優は外の世界に助けを求めようとし、そのまま地面に倒れ伏して号泣した。

   ○


3へ続く。


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