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飛躍

高校生の頃、ある先生に進路を聞かれたから今通っている大学の名前を言うと、せいぜい夢でも追いかけろと言われたことがある。そう賢くない高校の中で学年最下位のうえ、全国模試の偏差値が30前半だった当時、誰の目から見ても今通っている大学に合格することは現実的ではなかったのだろう。その先生だけでなく、仲良かった友達のほとんどにも同じようなことを言われ、嘲笑されていたからきっとそうだったのだろう。僕は絶対に合格できると思ってたから、なぜ友達や生徒を応援する立場である教師までもが不可能だと断言できるかが不思議でたまらなかった。他人の言葉は一切気にせずに只管勉強していた(起きてる時間はほとんど勉強していた)ら成績が飛躍的に伸びた。それと同時に周りから貰う言葉が変わっていった。君ならできるよ、と応援してくれる人が増えていった。そうして気づけば、目指していた大学に合格していた。先生の話を聞く限り、高校でそこの大学に合格したのは歴代初のことらしかった。

結局ほとんどの人は目先の結果でしか判断できないのだと思う。人は学習し成長する生物であるはずなのに、できないことは永遠にできるようにならないと皆は思っているのだろうか?物事の見方には現象的と本質的の二つがある。現象的な見方とは物事を見るときに表面的、外観的な事柄のみを捉える見方である。本質的な見方とは目に見えるものだけではなく、その背景の内面的な事柄も捉える見方である。たとえば不動の学年一勉強のできる人がいたとする。現象的な見方をすることしかできない人はその人を見て、頭のいい人だなくらいにしか思わない。他方、本質的な見方をすることができる人は、その人が学年一位である理由を考えて沢山努力しているということまで見抜く。本質的な見方は洞察力につながる。

僕の受験を否定していたのに、いつの間にか手のひらを返した彼らは典型的な現象的な見方しかできない人である。仮に僕が一向に成績が上がらずに目指していた大学に入れなかったら、周りは「ほらね、だから無理だって言ったのに」と言っていたにちがいない。繰り返すが、大抵の人は目先のことでしか判断しない愚昧な人ばかりである。傲慢な物言いを許してほしいが、僕は大抵の人間に失望している。
だけど先生、生徒の夢は馬鹿にしちゃいけないよ、応援しろとまでは言わないけれど。

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