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希望は決して正義じゃないけど。『さみしい夜にはペンを持て』を読んでほしい「あの子」へ

ポプラ社一般書企画編集部 谷綾子

「世間には、他人の目にりっぱに見えるように、見えるようにとふるまっている人が、ずいぶんある。そういう人は、自分が人の目にどううつるかということを、いちばん気にするようになって、ほんとうの自分、ありのままの自分がどんなものかということを、つい、おるすにしてしまうものだ。ぼくは、君にそんな人になってもらいたくないと思う」

『君たちはどう生きるか』(ポプラポケット文庫・吉野源三郎)

2023年7月18日。『嫌われる勇気』の著者、古賀史健さんが執筆された『さみしい夜にはペンを持て』という単行本が発売になった。

主人公は、悩み深きタコの中学生、タコジロー。
学校をサボったある日、ふしぎなヤドカリのおじさんに出会い、「書くこと」で自分との人間関係を築いていくという寓話である。

奇しくも先日公開された映画にも登場する『君たちはどう生きるか』の主人公、コペルくんも、中学生だ。

この本も、中学生がメインの読者に設定されている。
ただ、担当編集である私は、最初のころ「中学生」がなんなのか、つかめなかった。

はたして読者は誰なのか? 誰に読んでもらいたい本なのか?

これは、その読者である「あの子」をみつけたときの話です。


私は何に感動しているのか

古賀さんから「企画について相談したい」と連絡をもらったのは、2021年の年末のことだった。
古賀さんとは、その2年ほど前にメッセンジャーでやりとりしていて、最後にベーコンの絵文字を送ったっきりになっていた。

↓ベーコンの絵文字
🥓

ベーコンぶりにお会いした古賀さんに「『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』すっごくいい本でした!」とページをめくりながら、そのすばらしさをまくしたてた。実際、すっごくいい本だったのだ。

しかし、その感動を伝える言葉を練りきれていない。「すっごくいい本」って、でかすぎる感想にもほどがあるだろ。もう少しちゃんと考えてくればよかった。もどかしさに恥じ入りながら熱い紅茶をすする。

そういえば古賀さんは、8年続けているnoteで、以前こんなことを書いていた。

「思う」と「言う」には距離がある

古賀さんのnote。

私ももちろん読者のひとりで、普遍的かつ新しい視点、落ち着いた文体で語られる世のことわりの鋭さ、そして豆腐ステーキの描写のファンである。

そんな古賀さんの日記には名文が多数、そりゃあもう多数あるけれど、この2018年に公開された「思う」と「言う」の距離について。という文章には、とくに反響が大きく、現時点で1405いいね、がついている。

外国に行ってもどかしいのは、「思う」と「言う」の距離が日本語の何万倍も遠くなってしまうことだ。
(中略)
みんな「思って」いるんだよ。なかなかことばが出てこないのは「言う」までの距離が遠いから、それだけなんだよ。

「思う」と「言う」の距離について。

言いたいことはあるけれど、うまく言葉になってくれない。

この「思う」と「言う」のあいだにある「言葉未満の何か」を言葉にすること。「書く」ことではじめて、人は「考える」ことができるということ。

まさにそれが、今回の本で、古賀さんが提案してくださった企画のテーマだった。

ほしい。すごくほしい。今すぐほしい。ください。

「喉から手が出る」で検索したらこの画像が出てきた。

最初の読者として何ができるのか

企画を具体的に進めることになって、古賀さんが送ってくださった構成案は、もうその時点ですごかった。これ絶対おもしろいに決まってるやん……と、項目の言葉をすぐにでも紐解きたかった。
なので、とにかく古賀さんの邪魔をしてはいけない、するなよ、と心に誓った。

この本のメインの読者は、中学生だ。
もちろん中学生のころの記憶はある。だけど、記憶は往々にしてまちがえるし、都合よく書き換えられていることも多い。

そのころの私がどんなことを考えていたのか。何を考えきれていなかったのか。

そこのところをきちんと探り、読者の像を結ばなければ、原稿をまっすぐ読めないと思った。

さいわいにも、当時の日記が残っている。
というわけで、押し入れにしまっていた過去の日記を引っ張り出しては読み、「読者」に「取材」することにした。

当時の日記帳。これを見るだけで、顔から火が出て住宅3棟が全焼しそう。

小学生から今日にいたるまで、

B5サイズのキャンパスノート
A6サイズのコンパクトなノート
非公開のアメブロ
懐かしのミクシィ
育児アプリ
ほぼ日の「5年手帳」
「雑記」とファイル名をつけたワード
スマホのメモ帳

……といった、統一感ゼロのさまざまな媒体に、そのときどきで、思いついたときだけの日記を書き散らかしてきた。


書き散らかしてきた、と言ったわりに白い。

で、15歳の私は何を書いていたんだろう? とひとしきり読んでみると、

「きょうは焼肉を食べた。おいしかった」
「数学わけわかめ」
「Mちゃんに『帰ってきたドラえもん』のあらすじを説明しながら泣いた」

などといったしょうもない情報が満載だった。
「パパパパパフィー見たら寝よう」という、睡眠への謎の意気込みが3回出てきた。

あまりにしょうもないので、読むのをやめかけたそのとき、ひとこと

「笑ってばかりいた。たのしかったのだろうか」

という文章をみつけた。

しかし、15歳の私は、その薄墨のような問いをほったらかして、すぐに
「星新一の『ボッコちゃん』を読んだ。おもしろかった」
という、どんだけ表面的やねん桃の産毛なでとるほうがましやんけ、と突っ込みたくなるくらい浅い感想にスライドさせていた。

でも「そうか、この子か」と思った。
やっと読者がつかめた気がした。


「中学生向けの本は売り方が難しい」というのはよく言われる。
じっさいこの本も、書店さんのどこに置いてもらえばいいのか? という議論は、企画会議のときもさんざん出た。
(営業チームの人たちが書店に行ってあれこれ考えてくれて、ものすごくありがたかった)

さらに中学生は、部活や勉強で忙しくて、あまり本を読む時間がなさそう。そして今はスマホもあって、SNSもある。おいおい、YouTubeもあるんだってよ。
ああ、中学生に届けたいと思って始めたものの、なんか懸念しかない……。

でも、そういう「頭」の側ばかりに立って、古賀さんの原稿を読むことはしたくなかった。それは、邪魔をすることと同義だから。

だから「この本を必要としているあの子」がみつかってほっとした。
古賀さんの原稿を読む準備が、やっとととのった気がした。


のちに直筆を公開されるとは思ってもいない、15歳の自分の字。翌日の筆圧に負けてる。

さみしいって、何だろう?

そして、古賀さんからついに、原稿が届き始める。

うまく気持ちを言葉にできない、タコのタコジロー。
新しい世界を開いてくれる、ヤドカリおじさん。

シロサンゴの森や深海で、ふたりの会話が、弾ける泡のように頭の中を飛び交う。

私が説明するのもあまりにおこがましいが、そもそも古賀さんの文章の巧さ、読み心地のよさは言うまでもない。そこから毛1本抜くところすらないほどの完璧さでもって、さらに読み手が自然に呼吸できる隙まであるときた。

でも今回の原稿は、さらに透明度が高い。それでいて、底がしれない深さも感じる。

そして15歳の私の「笑ってばかりいた。たのしかったのだろうか」という問いは、時間を超えて、こんなふうに答えをもらうことになる。

「家族や友だちと一緒にいるのに、さみしい。だれかとおしゃべりしながらも、さみしい。友だちもいて、家族もいる。笑顔もあるし、たのしい時間もある。それでもやっぱりさみしいんだよ」
「友だちがいるのに? どうして?」
「そこに『自分』がいないからさ」

『さみしい夜にはペンを持て』より


そこに『自分』がいないから。

15歳のわたしの目が、その一文にくぎづけになっていた。
原稿はそのあと「みんなと一緒にいると、自分ではいられなくなる」と続く。

くわしくはぜひ、本編を読んでいただきたいのだけど、「みんな」といるとき、私はたぶん自分を少しナメてかかっていたんだと思う。

この本に出てくるタコジローのように、私自身も「思う」と「言う」の距離が遠いタイプで、ライブで話すのは正直得意じゃない。

だから「みんな」の中では「ぼくのままのぼく」でいられなくなる。
ニコニコ笑いながら、アスファルトにこすられたせんべいみたいにガリガリ削れていく。その「うっすら自分にないがしろにされた」記憶が、あの一言を書かせたのかもしれない。

加害者も自分。被害者も自分なので、それ以上問いを突き詰められなかったのかな。そうかもしれない。私は、腹の底から息を吐いた。

「書いてるときは、ひとりだ」

書くことによって、自分で自分を理解できたかもしれない、という安心感。
それが多少的外れだったとしても、自分を大切にできる具体策があることの心強さ。

読めば読むほど、15歳の自分が少し深く息を吸えるようになっていく気がした。
これは、海の中のお話なのに。


「アスファルト せんべい」で検索すると出てきた画像。

「信じる」という人生の土台

それから数か月。
古賀さんと、何度か原稿のやりとりを重ねて、最後まで読み切った。

そして、自分がこの原稿の何に「感動」しているのかを考えた。

これを読んだら救われる、というメリットがあるから?

いや、そんな、人が人を救えるなんて大それたこと、古賀さんも(ましてや私も)考えているわけじゃない。

悩みを解決する「答え」が書いてあるから?

いや違う。真逆だ。

気休めだけの答えめいたものを、高らかにかかげる。
無責任な問いかけを投げて、さも深そうに見せる。
そういうことをしていないから、おもしろい。

そうか。これか。

古賀さんは、読者を信じている。

もっといえば、読者が「他人」に削られていない「自分」を掘り出していくことを、それが誰にでもできるということを信じているんだ。

書いていけば、その人だけの答えが見つけられる。
そのために古賀さんが、ひとつひとつ書きながら、「答え」にたどり着いたことだけを「ヒント」にしてくれているんだ。

「書くときのぼくたちは『手を動かすこと』が面倒くさいんじゃない。『頭を動かすこと』が面倒くさいんだ。なにかを書くためには、それについて真剣に考えなきゃいけない。その『考える』という手間を、みんな面倒に感じているんだ。書くことは、考えることだからね」

『さみしい夜にはペンを持て』より


書くという行為は、面倒くさい。だから、それなりに元気が必要だ。
疲れが心身の全体までまわっているときは、書くという選択なんかせずに、寝たほうがいい。

でも、もし、そろそろ体を起こしてみたい、と思ったとき。
頭に何度も流れてくる問いに、そろそろ決着をつけたいとき。
パパパパパフィーを見たあとに、まだ謎の元気があって眠れないとき。

帯の「この夜は明ける。書けば、必ず」という言葉は、そんなタイミングで希望を探している「あの子」の目に留まれば、と願って入れた。

明けない夜はない、とだれかが言った。
(中略)
わかったふりして、いい加減なことを言わないでくれ。
ぼくはずっと、そう思っていた。

『さみしい夜にはペンを持て』

私とて、明けないままになっている夜はいくつもあるし、うっかり目に入ってきたまぶしさがうっとうしい夜もある。

希望は決して、正義じゃない。

だけど自分を「信じる」という態度を言葉にすれば、それが小さな灯台になると思った。
少なくとも、求めている人にとっては。

古賀さんは、読者を信じて書き切ってくれた。
その「あり方」が、ぶつけてくれたかたまりが、本という具体物になっている。

15歳の私は、その事実に背中を大きくなでられたようだった。


もちろん実際に大人になる過程では、いろんなことがある。ベーコンの絵文字を送ってしまうこともある。

だけど「信じる」の基礎をくれるのが、この本の読書体験になるのかもしれないと思った。効能とか、メリットとか、ポジティブとかではなく、自分を信じる土台となること。

こんなことを言うのは、編集者としてはどうかと思う。だけど、ひとりでも多くの人に読んでほしいという前に、まずはあの日の、15歳の私に読んでほしかった。

ありがとうのコーナー

最後になりましたが、幻想的な景色と、お茶目で等身大のキャラクターを、たくさん描いてくださったならのさん。四六判の小さな紙面の中に、奥行きのある海の世界がどこまでも広がりました。ほんとうにありがとうございました。

ならのさんをご提案いただき、また、たび重なるご相談にも関わらず、その都度、最良のアイデアを出してくださった佐藤亜沙美さん。いつもほんとうにありがとうございます。本体表紙のデザインを見たときは、美しさと怖さに溺れそうになりました。

現代の中学生について知りたかったとき、何度も相談にのってくださった麹町中学校の南先生、生徒のみなさん。こちらで伺ったお話や生徒さんのご感想が、この本を進める上での、かなり強固な軸になりました。心から感謝申し上げます。

速さと的確さ、そして勘所も鋭く人柄まですばらしい、神DTPのエヴリ・シンクさん。いつも丁寧に、本が世に出る責任を共有しながら校正してくださるぷれすさん。推薦コメントをいただいたブレイディみかこさん、内沼晋太郎さん、葉一さん、糸井重里さん、山口周さん。

そして、読者の方に一冊一冊手渡して届けてくださる、書店のみなさま。
ほかにも社内外ともにたくさんの方、ほんとうに、ありがとうございました。

「ぼくたちが生きるうえでの最大の謎。最期の瞬間まで、ずっとついてまわる謎。それは『自分』だ。自分は何者なのか。心の奥底にいる自分は、なにを考え、なにを望んでいるのか。これから自分はどこへ行こうとしているのか――。」

『さみしい夜にはペンを持て』より

自分の海にもぐってみたら、思ったよりも美しい世界が見えてくるかもしれません。

🥓


↓古賀史健さんのnote  


撮影(本・POP):吉野真悟


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