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吉見百穴

所在地:埼玉県比企郡吉見町大字北吉見324
指定:大正12年(1923)3月7日 国指定史跡
訪問日:2024年2月12日

この穴、全部お墓

筆者撮影

丘陵や台地の斜面を掘削して作ったお墓を横穴墓と言います。
それぞれの開口部は1メートルくらい。

筆者撮影


玄室には棺座と呼ばれる、遺体を安置するためのベッドのような段差があるため、1つの横穴墓に、複数の遺体を埋葬していたと考えられています。

出典:リーフレット

ほとんどの横穴墓は、玄室から前庭にかけて、傾斜がつけられています。
おそらく排水のための工夫でしょう、とのこと。

筆者撮影

かつて入口は「緑泥石片岩」という石で塞がれていました。
持ち上げて動かすことができ、扉のように開閉していたとすれば、あとから別の遺体を運び込む「追葬」の形が取られていたと考えられ、この様式は、古墳の横穴式石室と同じ構造です。

中央集権が進み、「公地公民制」が敷かれ、豪族が権力を失っていく時代の流れの中で、大規模なお墓は築造されなくなりました。
横穴墓は、古墳時代後期の、中央集権が本格化する少し前の作例(5世紀後半~6世紀)と考えられています。

他に、福岡県行橋市「竹並遺跡」(1000基以上)、茨城県ひたちなか市の「十五郎穴横穴墓群」(300基以上)、千葉県長尾郡長柄町の「長柄横穴墓群」(300基以上)など、各地に作例を見ることができます。


丘陵の上から見下ろした風景

筆者撮影

拡大します。

富士山が見えます。
旧石器時代や縄文時代の遺跡は、必ず富士山のほうを向いている(富士山が見える地域においては)、と聞いたことがあります。
このお墓は、富士山が見える一等地だったんでしょうね。


住居か墓か

江戸時代中期の文献には、すでに「百穴」という表記が見られるそうです。
いくつかの穴が露出しており、不思議だなあと思われていました。

科学的な検証が始まったのは明治時代になってから。
明治20年(1887)、坪井正五郎博士(当時大学院生)を中心に、約6ヶ月かけて発掘調査が行われ、横穴と、人骨、玉類、金属器、土器などが発見されました。
坪井正五郎は”この穴は日本の先住民、土蜘人(コロボックル)の住居であり、のちに墓穴として利用された”と唱えました※

出典:解説板

しかし白井光太郎博士が反論し、「住居か墓か」という論争が続きます。
その後、他の横穴墓が発掘されるなど調査が進んだことから、墓が定説となりました。

明治21年に描かれた吉見百穴。

出典:吉見町埋蔵文化センター


こうして大正12年、国の史跡として指定されたのです。

それなのに?

この入口を入っていくと。

鉄柵の間から撮影した内部

岩山の地下に航空機の部品を製造するための軍事工場が作られ、横穴墓は219基に減ってしまったそうです。
え!?
国指定の史跡って、破壊していいの?

この工事に加わったのは、3000人~3500人の朝鮮人労働者で、昼夜を徹した突貫工事でした。
やっと工事が終了し、生産が始まろうというときに終戦を迎えました。


※コロボックル論争

坪井正五郎博士といえば、日本初の人類学者ですよね?
西洋に遅れをとっていた考古学の分野を、劇的に発展させた功労者、という認識です。
コロボックル? 土蜘蛛?
そんなファンタジーなことが学説で?(後世から見てファンタジーとか言っちゃいけないんだけど)
土蜘蛛というのは「日本書紀」の中に出てくる異民族に対する呼び方なのだそうです。

調べてみたところ、この頃「コロボックル論争」というのがブームになっていたとか。
ブームになるほど、コロボックルは信じられていたのでしょうか?

そもそも、コロボックル説が出のは、「札幌近傍ピット基の竪穴式住居」が発掘され、アイヌ人の住居だったと唱えた白井光太郎に対して、アイヌ人ではないと坪井正五郎らが否定し、じゃあ誰なんだ? 先住民だ、先住民ってなんだ? コロボックルだろう、という展開になったらしい。
そもそもコロボックルは、アイヌ人の間に伝わる伝説で、当時でも無理のある主張だったのではないかと思うのですが、これはコロボックルがいるかいないかという単純な議論にとどまらず、日本人の祖先はアイヌ人なのか、縄文人はアイヌ人なのか、という今も日本人のルーツをめぐって活発な議論がありますが、そいうことにつながっているので、ここはコロボックルにしておくと辻褄があう、というようなそんなことだったのか、すみません、難しくてよくわかりませんでした。

結局、坪井正五郎はペテルブルクで病気で亡くなってしまい、それとともにコロボックル説もなくなります。

しかしコロボックル論争のおかげで、賛成派も反対派も自説を証明するために、研究が進み、新たな発見がたくさんありました。
このコロボックル論争はそのプロセスで、考古学・人類学の発展にたいへんな貢献をしたのでした。


発掘の家

さて吉見百穴の敷地内に「発掘の家」という売店があります。
「大澤さん」というお家が運営されていて、大澤さんはこの岩の所有者なのだそうです。

私有地なの?!

国指定って、私有地でも受けるんですね。

出典:東武沿線物語

坪井正五郎博士が発掘したとき、大澤家のご先祖様も尽力されていたそうです。
発掘されたもののほとんどは、東京大学が研究のために持っていきましたが、残していった出土品を、売店内で展示しています。
撮影不可だったので、写真はありませんが、勾玉、耳環、太刀類などがありました。

88歳とおっしゃる店主のご母堂が気さくに話しかけて下さいました。
こちらの写真↓、上にいる方々が地元の方々、下にいるのは、集まってきた子どもたち。
当時日本にはまだカメラがなかったので、モースが撮って、置いていってくれたそうです。

出典:リーフレット
大澤家所蔵

モースって、大森貝塚の?
ひゃー。
歴史ロマンすぎる。

お土産にご母堂オススメの「五家宝」を買ってきました。
もち米にきなこがまぶしてあるそうです。

カバー写真:筆者撮影


<参考資料>

「吉見百穴」リーフレット

「吉見町埋蔵文化センター」展示資料

埼玉県吉見町公式webサイト
https://www.town.yoshimi.saitama.jp/soshiki/shogaigakushuk/7/909.html

東北歴史博物館 
第5回館長講座「坪井正五郎と旧石器時代住民論争」2019年
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東武沿線物語webサイト 編集・発行:東上沿線新聞
https://www.tojoshinbun.com/diary/%E5%90%89%E8%A6%8B%E7%99%BE%E7%A9%B4%E3%81%A8%E5%A3%B2%E5%BA%97/


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