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セデック・バレ

第一部「太陽旗」第二部「虹の橋」

制作年:2011年
制作地:台湾
監督・脚本:ウェイ・ダーション(魏徳聖)
上映時間:4時間36分
視聴日:2024年2月9日、10日

政治的な思想をできるだけゼロにして見たい映画です。
風景は美しく、祭りの踊りは神々しく、歌声は哀切で、狩りの場は神秘的。
セデックの人々は彫りの深い丹精な顔立ちで、言語はまろやかで心地好い。日本兵もけっして悪意を持っては描かれていません。
プロパガンダや反戦映画とは一線を画しています。

監督は、メッセージがたくさんありながらも、エンターテイメント性にもっとも気配りして作ったのではないかと思います。
できるだけ人を傷つけたり煽ったりないように。


セデックはどんな部族?

主人公モーナ・ルダオの父は、こう語ります。
モーナ・ルダオはセデック族の1つ「マヘボ社」の頭目です。

我々は真の人(セデック・バレ)だ。
真の男は戦場で戦って死ぬ。
そして大きな虹の橋を渡って、祖先の霊が住む天上の家へと向かう。
天上には美しく豊かな狩り場があり、真の男だけがこの狩り場を守る資格を持つ。
祖先の霊がおまえに尋ねる。
「手を見せてごらん」
男が手を開くと、洗っても落ちない血の跡がある。
「まさしく真の男の手だ」
名誉ある狩り場を永遠に守るにふさわしい。

狩猟民族であるセデックにとって、一番大事なのは狩り場です。
よその部族と狩り場を巡って戦い、相手の首を狩ると、顔に刺青を入れることを許されます。
それが真の男の証。

セデック族は、そういう文化を持った民族です。

あらすじ

実際に起こった霧社事件をモチーフにしています。

1895年、日清戦争で勝利した日本は、台湾を割譲され、初の植民地を手に入れました。

狩り場を守るために、弓や槍で戦っていたセデック族のところへ、鉄砲と日本刀と手榴弾をもった日本兵がやってきます。

祖先が守ってきた狩り場で、なぜよそ者が我が物顔をする?

セデック族は抗いますが、武力で抑え込まれてからは、従順な態度をとってきました。

ときは35年後の1930年。
統治すなわち「理蕃政策」が進み、セデック族ら蕃人(日本側の原住民に対する呼称)たちも日本語を話せるようになっています。
師範学校を卒業して、日本の警察官になった人もいます。
「機会平等」かのように見えますが、現地人に高い教育を受けさせ、支配階級(ここでは警官)に従事させるのは、統治の基本です。
なぜなら庶民は、宗主国の支配者よりも、同じ民族の言うことをよくききますから、統治しやすいのです。

安い賃金で重労働を課せられるばかりでなく、伝統文化や儀式を禁じられ、すなわち民族の誇りを蔑ろにされたため、彼らは鬱屈を抱えていました。

あるときセデックの若者が結婚の祝宴をあげていました。
たまたま通りかかった日本の警官に、祝の酒を勧めると、セデックの手に豚を捌いた血がついていたことから、「こんな汚い酒を飲めるか」と警棒で叩かれます。
祝の酒を断ることは、セデックの常識ではありえない無礼でした。
カッとなったセデックが、警官を殴ります。

これが火種になって、セデックたちが蜂起した事件が「霧社事件」(1930年)です。
霧社は「理蕃政策」の拠点でした。
霧社公学校で運動会が開催された日、原住民族11社(社=集落)のうち6社のおよそ300名が日本人を襲撃、136名を殺害し、駐在所を焼き払いました。

ここまでが第一部のあらすじです。

<霧社の場所>


第二部は、日本政府が原住民を鎮圧するのですが、残虐な闘争シーンが多く、一部とはだいぶ印象が変わります。
霧社を2日後に奪還したものの、セデック族は山の中でゲリラ戦を繰り広げ、2ヶ月に渡る長期戦になりました。
原住民の戦死者・自決者・行方不明者はあわせて約1000人にのぼり(およそ民族の半分)、500人は投降して、終息しました。


感想

祖国を守るためだろうが、狩り場を守るためだろうが、いい戦争なんて1つもない。

モーナ・ルダオをもっと英雄に描くこともできたと思いますが、男の美学やロマンにつきあわされた女や子どもの立場も描かれていて、戦争賛美になっていないところがいいです。

モーナ・ルダオは部族の長として主役ですが、もうひとりの主役は、セデックから警官になった花岡一郎花岡二郎。まるで兄弟のような名前ですが、そうではなく、日本当局から与えられた名前です。同じように日本名を与えられた現地女性と、官費で日本式の結婚式をし、妻は和服を着て暮らしていました。
彼らは「郵便局や学校ができて水道が通って、これまでのように野蛮な狩りをしなくて済むようになったじゃないか」とセデックたちを諭し、日本の統治に対して反対の立場ではないのです。
しかし、セデックが武装蜂起するときは、武器弾薬の場所を教えてしまいます。

花岡一郎は、板挟みに耐えきれず「俺たちは天皇の子か、それともセデックの子か」と問いながら自決します。

セデックの子に決まっているじゃないですか。
と、民族えこひいきの私は思う。

しかしこの映画のテーマを「民族の誇り」としてしまうと、戦争礼賛、とまではいかないにしても、美化してしまうことになりかねません。
「民族の誇り」のために負けるとわかっている戦いに挑むと、民族が殲滅してしまうかもしれません。
日本も日本人の誇りのために、一億玉砕なんて言っていましたね。
もし玉砕していたら、今の私たちはいませんでした。


後日談

翌1931年、第二霧社事件が起こります。
投降して収容されていた人たち(保護蕃)198名が、「味方蕃」に殺害される事件です。
「味方蕃」とは、蜂起に加わらなかった同じ原住民を日本兵がけしかけて使役した人たちです。
残った300名は、川中島へ強制移住させられました。
「川中島」は日本統治時代の地名で、現在の名称は仁愛郷互助村です。

昭和天皇さえ「事件の根本には原住民に対する侮蔑がある」とおっしゃったらしく、総督府は「生蕃」「蕃人」という言い方を、「高砂族」「平埔(へいほ)族」と呼称することに改めました。

しかし1931年に満州事変が勃発すると、台湾に対してより徹底した植民地政策「皇民化政策」をとることになります。
高砂族は「高砂義勇軍」として、フィリピン線やガダルカナル島などに送られました。

行方不明になっていたモーナ・ルダオは、戦闘終息に4年後に、山の中で、半分は白骨化、半分はミイラ化して発見されました。
日本人が遺骨と武器を公開展示しましたが、ふたたび遺骨が行方不明になります。
それから39年後、遺骨が台湾大学医学部の標本室で発見されました。
遺族によって故郷の霧社に葬られたのは、事件後43年が経てからでした。


カバー写真:株式会社マクザム公式Webサイト

<参考資料>

「霧社事件」世界史の窓 Y-History 教材工房
https://www.y-history.net/appendix/wh1503-040.html

伊藤潔著『台湾 四百年の歴史と展望』 中公新書 1994年


河原功著『霧社事件』「台湾新聞資料2」財団法人台湾協会 1930ー1931
https://www.koryu.or.jp>ez3_contents_nsf>index2

駒込武著「台湾原住民族にとっての霧社事件」『日本台湾学会報』第12号 2010年
https://jats.gr.jp>2022/07>gakkaiho@012_02

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