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映画「さよならの朝に約束の花をかざろう」・「葬送のフリーレン」

今日はアニメの日だそうですね。

「アニメの日」は、日本初のカラー長編アニメーション映画『白蛇伝』の公開日である1958年10月22日にちなんで、日本のアニメーションの魅力を世界に向けて発信するために、日本のアニメ100周年となる2017年に制定したものです。

AJA 日本動画協会より

次女が「さよ朝、観て!」というので、観てみたらとても良かった。

作画がキレイで井上俊之さんという凄腕アニメーターについても強制…じゃなくて丁寧に説明してくれた。

赤ちゃんがずっとかわいくて、1人の人間を育てる過程がが切なくて。

次女は序盤でエリアル(赤ちゃん)と出会うシーンでもう号泣だったらしいです。

「おもちゃじゃないぞ。」といわれるマキアが「おもちゃじゃありません…わたしのヒビオルです。」というシーンです。

このシーンがマキアの瞬間的なエゴだったとしても、人間の最大のエゴは子供を産むことで、だからこそ大きな責任が伴うと思っているわたしの個人的思想とその後の展開が重なりました。

他の物語に出てくるありがちな反抗期セリフ「誰も産んでくれなんて頼んでねーよ!」みたいなやつは、ごもっともだと思います。言われたことも、言ったこともありませんが。

ともかくわたしは年齢のせいか?、その段階ではまだ泣けませんでしたが、やはり終始母親目線で観てしまいます。

そして最後は涙なしでは観れませんでした。

なんだか後から心に沁みる映画で、視聴後↑の予告観た時にもグッと来るものがありました。

少しこうだったら良かったなぁ…と思う部分が1つだけ。

ここからは個人的な意見です。(観たことない方のためにあえて詳細は省きます。)

レイリアは何かしらのかたちで娘のメドメルに、わずかでも愛情を示して欲しかった。

例えばイゾルとメドメルのメイドに協力してもらい、軟禁状態の生活の中で、織り機だけでも用意してもらいタペストリーサイズのヒビオルを織り、メドメルに届け続ける。

ヒビオルに込められたメッセージは、イオルフの血筋があれば読み取れるのか、技術を習得しなければ読み取れないのか設定は不明です。(エリアルが読み取れているシーンがないので、前者の可能性が高い。)

・前者だった場合
メドメル自身でレイリアの思いを読み取れる。

・後者だった場合
メドメルを暗殺にきたクリムがヒビオルを見つける。

レイリアの思いを読み取り、ためらう。

メドメルにヒビオルに込められたメッセージを教える。

イゾルに見つかり格闘。

みたいな流れがあったら良かったなぁ…あくまでも例えばですが。

とにかく最後の瞬間のメドメルが気の毒すぎて、自分はわずかでも愛されていたんだと、その後の人生の糧をもう少し残してあげて欲しかったなぁと思いました。



「葬送のフリーレン」も薦められて現在TV放送されているところまで観ました。

原作を読んでいないのですが、次女はヒンメルの純愛物語なのだというので、検索してみるとたくさん同様の書き込みを見ました。
なるほど…そこ今後注目しながら観ます。


その一方で先日Xで、たらればさんのポストを見ました。☟

このポストから飛べる記事の内容は、

葬儀は生きている人のため? 『葬送のフリーレン』で考える死と老い

「生老病死」を語る記事でした。

しょうろう-びょうし【生老病死】
生まれること、老いること、病むこと、死ぬことの四つの苦。人生における免れない四つの苦悩のこと。
▽仏教語。四苦ともいい、また、四天使ともいわれる。

goo辞書より

令和に生きる、医師でもないわたしたちは、生きることも老いることも死ぬことも、〝物語〟を通して知るのではないか――?
そんな、あなたの「生老病死」観をかたちづくった〝物語〟はどんなものですか。

以後引用部分は全てX内の
リンク先withnewsより


面白いと思ったのは、観ている年齢層によって、視点が全く違うのではないかというところ。

記事の中の文章を抜粋すると(順不同)

アイゼンというドワーフが、主人公のエルフ・フリーレンに語るセリフです。

「人生ってのは衰えてからのほうが案外長いもんさ」

もう若い頃のようには働けないなあと思うわけですけども、考えてみたら実際の「若い頃」よりも、「もう若い頃のようには働けない」と思いながら働いている時間のほうがずっと長いんです。

お爺さんになった勇者ヒンメルが、彼はナルシストなキャラクターなんですが、
「歳をとったぼくもカッコいいだろう」と言うんですよね。
勇者ヒンメルは「老い」を肯定的に受け入れているんです。そして「やがて死ぬ自分」も受け入れている。

たぶんぼくも、歳をとって老いを受け入れて、だんだんと「そのうち死ぬ自分」を受け入れることになるんだろうなあと思えるんですよ。

以前、とある精神科医の先生とお話しする機会がありました。

当時、先生は御年70歳で仕事量をセーブし始めていると仰っていましたが、それでもまだ高齢者施設への診察に時々通われていると。

そうすると、この前会ったあの人が居ない…ということに度々遭遇するようになった。

「これまでは死ぬのが怖いと思っていたけれど、最近はそう思わなくなってきたんだよ。」と仰られたのが印象的でした。

その領域に達することは、まだまだ想像もつきません。

わたしは死に対して恐怖心がもちろんありますが、韓流ドラマ「トッケビ 」で、この作品も永遠の命を持つキャラがメインのストーリーなのですが、イケメンの死神がお迎えに来て、おしゃれなカフェで現世の記憶を消すお茶を飲み、死後の世界に送り出してくれるシーンがあります。

こんな最後の旅立ちなら怖くないかもしれないな…などと思ってしまう。
個人的に、ご指名はイ・ドンウクかチャン・ギヨンで。

「トッケビ 」1回目大号泣した作品で、わたしは3周はしたのでオススメです。

タイトルに「葬送」と入っているからというのも大きいと思うのですが、亡くなってゆく人の気持ちと同時に、見送る側の人の気持ちも同じくらい大事なんだなということが実感できますよね。

やっぱり葬儀というのは、まだ生きている人が生き続けるためにやることなんだな、とは思います。生きるためにお葬式をやると。

義父が亡くなった時、長女は20歳、次女は中学3年生でした。
中間試験の真っ只中で、受験には大切なテストだったことはわかっていましたが、学校を欠席して葬儀に参列させたことは後悔していません。

ご遺体に触れさせてもらい、骨上げさせてもらった貴重な経験が出来たことは、2人にとってその瞬間は祖父が亡くなった悲しみだけが記憶に残っているかもしれないけれど、長い人生の中で別な視点でこの日の経験を思い出すことがあるのではないかと思っています。

「死」というのは生きている側からしか語れないんだな……ということでした。「生老病死」の中で一番「死」が不公平な立ち位置だな、と。

生も老も病も、人は生きながら老いながら病みながら語ることができるんですが、「死」だけは、そっち側に行っちゃったら語れないんですよね。それはもう生きている側が語るしかない。

全4回の記事で、3回目の部分なので、是非記事に飛んで読んで見てほしいです。
作家さんや編集さんの視点ってさすがだなと思いながら読みました。


今まで人間と関わったことがなく、自分より寿命が短いと知りながら人間を育てることで愛と生を知るマキア。

自分より寿命が短いと知っているがゆえに、関心を持ちづらかったのか、あえて持とうとしなかったのかもしれないフリーレンがこれから知る愛と生。

思わず「トッケビ 」についても記載してしまいましたが、
純愛から生老病死まで幅広い視点で観れる、それぞれの作品に出てくる「ご長寿キャラ」の違いが興味深かったので、おすすめです。







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