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「我が青春のドイッチュラント」  エピソード(2)アンドレイ ひと握りの記憶

ドイツ南西部の街、シュツットガルトにいた。
世界初の歩行者天国だという大通りを歩いていると、アコーディオンでバッハを演奏している若者がいた。荘厳、かつ繊細で、魂を揺さぶられるような響き。あまりの見事さに立ち尽くしてしまった。

「彼、上手でしょう?」 英語で話しかけてきたのは、演奏者の友人だというスラリとした若い男性。
「モスクワ音楽院を出たのに、オーケストラに空きがなくてね。ドイツまで出稼ぎに来ているんだ。故郷の家族に仕送りをしているんだよ。」
「日本人はいいよね、どこへでも行けて。自由な国でさ。」
「見て、あのバルコニー。あそこでヒトラーが演説をしたんだよ。」
「この街は、第二次大戦中に53回もの爆撃を受けて破壊され尽くしたんだ。今は、ベンツとポルシェの街だけどさ。」
「新宮殿の右側を見てごらん。あれがアルテス・シュロス(旧宮殿)だよ。僕らの国のプリンセスがお嫁入してきて、ヴィルヘルム1世の王妃になったのさ。そして、あの宮殿に住んでいたんだ。」
「僕の名前はアンドレイ。ねえ、明日の朝、またここで会っておしゃべりしない?10時でどう?」

私が「イエス」と応えてすぐの出来事だった。誰かが、「ポリツァイ!(警察だ)」と叫ぶや否や、通訳をしているという彼も、演奏者も、路上で物を売っていた男達も、いっせいにいなくなった。あまりの素早さに、突然蒸発してしまったかと思った。

翌朝、私は同じ場所に来た。両替をしていたので、4、5分遅れた。
待っても待っても、彼は現れなかった。
10時になっても私が来ないので、諦めてしまったのだろうか。
何か、来られない事情があったのか。
不法滞在で警察に逮捕されたのだろうか。
焦燥感に駆られて、居ても立っても居られない。
10時前に来れば良かった。両替なんか、後にすれば良かったのだ。
どんなに悔やんでも時計の針は戻せない。

滞在を延ばして、翌日も、翌々日も同じ場所で待っていた。
けれど、彼らの姿を目にすることはなかった。

なぜか、胸がキリキリと、いつまでも傷んだ。


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