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【短編小説】 電子タバコ

「ある日、僕はスタートアップ起業家の自宅に招待されたんだ」と澁谷しぶたには語り始めた。澁谷が電子タバコを喫っている隣で僕は腕組みしながら聞いていた。外は涼しかった。ひんやりとしていた。日中、それなりに気温は上がっていたが、雨は、コンクリートの火照った地肌を冷やしていった。半袖では薄ら寒いくらいだった。澁谷はベージュのカーディガンを羽織っていた。出発時の温暖な気候に油断した僕は上に着るものをなにも持ってきていなかった。

誰かに貸してもらうことは簡単だった。「Tシャツしか持ってきていなくて……もしなにかしら衣服が余っていたら貸してもらえたりしないかな?」と声を掛けてみればいいだけのことだった。しかし僕にはそれがとても難しいことのように思えた。同時に、ひどく面倒なことのようにも思えた。そんな難しくて面倒なことをするくらいならこの肌寒さに耐えるほうがよっぽどいい、と僕は思った。そしてその通りにした。たとえ風邪をひいたとしても。1週間もすれば治るだろう。

繰り返しになるが、僕はそのパーティーを愉しむことができないでいた。それは、僕の周囲にいる友人たちのせいでもあったし、慣れないホームパーティーという制度——環境——のせいでもあった。そしてなにより僕が愉しめないのは僕自身のせいであり、僕自身が抱えている問題のせいだった。しかし、僕が抱えている問題というものがいったいなんなのかを、僕自身も見出せていない、っていうのが目下僕が抱えている問題のうちで最も重要な問題だった。

僕は腕組みをして寒さに耐えた。玄関前、ポーチで電子タバコを喫っている澁谷を隣にして。しかし、なんだかんだ、僕は今この瞬間が一番リラックスできているし、自分らしく振る舞えているような感じがした。僕はその感覚をふしぎに感じた。澁谷とのふたりきりの状況では、僕は誰に気をつかうでもなく自然体でいられた。なにも今始まったことじゃない。思えば学生時代から、僕は澁谷とふたりきりでいることを心地良く感じていた。

そう感じていたのは僕だけじゃなかったんだろう。だから澁谷のまわりにはいつもたくさんの友達がいた。澁谷は多くのクラスメート、だけじゃなく後輩や先輩、他校の生徒や教師たちとのつながりもあった。澁谷が自分からなにか面白いことをしたり、喋ったりすることはまれだった。澁谷はいつも受け手、、、だった。しかしこの人のまわりに人が集まってくるのはどうしてだろう?

僕はいつも考えていた。かれの周囲は冬の日の暖炉の周辺のように、どうしてこんなにも居心地がいいのだろう。

澁谷と関わっていなければそもそも僕はこのパーティーに招待されていなかったはずだ。隣で電子タバコを喫っているかれを横目に、僕は感謝の言葉を述べた。声には出さなかったし、口も動かさなかった。——仏前でなにかを祈念するときと同じように、ただただ強く思って念じるだけだった。けど、この思いはかれに伝わるだろう。言葉よりも強い形式で、、、、、、、、、、。やがて伝わるだろう。僕は確信を持っていた。

「ぼくが、その、スタートアップ起業家と出逢ったのは蔵前駅の程近くにあるコーヒーショップ。その日ぼくは信頼しているアート・ディレクターとお茶をしていたんだ。彼女は四十代前半で、幸福そうな家庭を築いている。ぼくは彼女の家族とも交流があってね、たまに夕食をともにしたりすることもあるんだ。彼女の息子の栄次郎えいじろうくんはまだ小学校にも上がっていないけれど、英語と日本語の二カ国語を喋れるし、音楽や映画、とくに演劇にとても詳しくてぼくは思わず舌を巻いてしまったよ。俳優の名前と出演作を記憶していて、ものまねみたいなことをすることもできるんだ」

と澁谷は言って、右手に握っていた電子タバコを咥えた。

「すごいね」と僕はかれのほうを見て言った。

かれは軽く頷いてから煙を吐いた。そして、「すごいよな」と応じた。

かれの口から吐かれた煙は芋っぽいにおいがした。正直言って、ぼくはそのにおいがあまり得意ではなかった。あの芋みたいに甘ったるい香りを嗅ぐくらいならタバコの葉が燃焼して生じるほんものの煙を吸うほうがよっぽどよかった。タバコの葉が燃焼して生じるほんものの煙はいつまで経っても消えてなくなることはなく、天高く立ち昇っていく。その風景を眺めているのが好きだった。けれども、電子タバコの煙は——それは厳密に言えば煙ではなく水蒸気なんだけれど——すぐに立ち消えてしまって風情がなかった。おまけにタバコは「喫う」という字を当ててあげるのがぴったりだが、電子タバコのほうには「吸う」という字を当てたがった。それは「喫煙」するというよりも「吸引」するというイメージが強いからだと思う。


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