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【短編小説】 主人を律儀に待っている犬のように

玄関の扉越しに車のキーロックが解除される音が鳴った。

「玄関前に停められていた車は、モデルの方のお車なんですね。てっきり澁谷様のものかと思っていました」
とわたしは言った。澁谷氏はなにも応えなかった。それでもよかった。突如、ふたりきりになってしまった空間に順応するために、わたしはかれに話し掛ける必要があった。
「車のキーロックがはずれるときに、今みたいに、ファンファンって音が鳴ることがあるじゃないですか、わたしはあの音を聞くとですね、まれに、それが犬の鳴き声のように聞こえることがあるんですね。澁谷さんはありませんか?……わたしの感性が変わっているだけかもしれませんけれどね、それが犬の鳴き声のように聞こえてしまうのは、ファンファンって音が犬の鳴き声に似ているというわけではなくてですね、どちらかというと、停められている車が犬に似ていると感じるからなんですね、どういうことかと言いますと、主人を律儀に待っている犬のように見えることがある、ということです。お待ちかねの主人の姿が見えて、嬉しくてワンワンと鳴く犬みたいに」

どんなふうに応答するべきかわからなかった、僕は相手が話し終えてから数秒間動きを止めた。呼吸することによって膨らみ萎む胸部と腹部、そして背部以外はなるべく動かさないように努めた。そして数秒の間が過ぎ去ったのち、僕はやっと動き始めた。アトリエの入り口の方まで歩いていって鍵を締めた。大抵、僕はこんなふうにして返事をすることを回避する。自分の代わりに、沈黙に返事をしてもらうのだ。

——それじゃあ逆に苦手なタイプは?

はっと意識が戻ってくると僕の背後には壁があった。寄り掛かって、斜め右前にいるインタビュアーの問いに答えるような格好になっていた。インタビュアーはApple PencilでなにやらiPadに書きこみをしている。Apple Pencilの形状(第一世代)からそのiPadはAirでもProでもなくてたんなるiPadなのだということがわかるが、それが最新のものであるのかまではわからない。僕はiPad Airを持っていたが半年くらい前に売ってしまった。それくらい資金繰りが厳しかった。

どんなに資金繰りが厳しくても美術制作に関わるものに投じるお金は惜しまない、というのが僕のポリシーだった。しかし、状況は悪くなっていく一方だった。結局、美術制作の道具を売って当面の生活費をまかなった。Macを売ったらとうとう制作はできないし、スマートフォンを持たないわけにもいかない。売るとしたら……iPad Airしかなかった。

状況はいつから、どのようにして悪くなっていったのか。明確なきっかけはわからないが、原因ははっきりとしている。僕が他人に対して見栄を張るようになってからだ。個展を開いたりパーティーを催したり、30歳を越えて昇進を重ねていくクラスメイトたちに無謀にも対抗しようとしていた。「アーティストってそんなに儲かるの?」

「まあまあだよ」と僕は言った。

「そんなはずないだろ。儲かるアーティストなんてひと握りに決まってんだろ、なぁ?」
と僕の顔を覗きこんだ、奴は言った。
「だから澁谷はすごいんだよ」

僕は微笑んだ。はは、そんなことはないよ、たまたま、運が良かっただけ。そう。君もわかっているように、儲かるアーティストなんてひと握りに決まってんだ。僕は、なんというか、胸が痛いよ。

「大丈夫。飲み過ぎたんじゃないの?」

「そうかもしれない。連日の個展で、少し疲れてしまっているのかもしれない。少しだけ、ベッドで休んでくるよ」

そう言って僕は居間から去った。階段を下りる。左手には脱衣所と浴室。右手には玄関ホール。中央には長い廊下が、まるでこの邸宅の背骨のように、貫かれてある。廊下の最奥はパントリー。最も手前にある部屋は客間だろう。扉が少しだけ開いていて部屋のなかを垣間見ることができた。造りから客間であると推測した。だとしたらそのとなり——その扉とパントリーの引き戸だけに鍵穴がある。そのことから、どうやらあれが主人の部屋なのだろう。

階下に来たものの、眠る気はさらさらなかった。ただ居間から——パーティーの人いきれから——抜けだしたいだけだった。僕は玄関の扉を開けた。ポーチの下でたばこを喫う先客がいた。おれだった。


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